まるごとカレー物語 (中)
佐伯克哉の顔も名前も、すっかり忘れていた。
彼が松浦が勤める伊勢島デパートに営業に訪れるまでは。
「オレもバレー部だったんですよ」
そう言われて、ああ、と気のない返事をしたが、ひとつ思い出すとずるずると思い出した。
毎年数名実業団に進む選手が出る部において、佐伯は特に目立ったところもなく、やる気も見えない部員だった。
にも関わらず、松浦が佐伯を覚えていたのは、本多がなにかにつけてかまっていたからだ。
「克哉は違うんだ。あんなもんじゃない」
高校時代から全国に名を馳せたアタッカーで、大学でも一年からレギュラー入りしていた本多が口癖のように言うので、
松浦も佐伯を意識するようになった。
脱落者も少なくない厳しい練習に、ぎりぎりいっぱいというふうでもなくついてきているのに、
リベロを希望するほかのチームメイトが必死になればなるほど、まるで自分に気づかないでくれというかのように主張しなくなる。
変なやつだな。というのが佐伯に関する松浦の印象だったが、その奇妙さに逆に引き付けられるものもいるようだった。
「おまえもどっちかというと女顔だよな、松浦」
合宿場の洗面所でたまたま一緒になった先輩のひとりに言われ、反射的に松浦は片頬を歪めたことがある。
向こうは松浦などどうでもよかったらしく、洗った顔をタオルで拭きながら続けた。
「佐伯って、来てないんだな」
「実家のほうで用があるって聞いてますけど。まあ、練習もよくサボるヤツですから」
「次は来るようにおまえから言っとけよ」
会話はそれだけだったが、松浦は神経質な分察しもいい。
練習をサボってもスルーの部員を合宿に来させるのには、なんの目的があるのか。
部活で使ったタオルを時々失う、と佐伯が洩らしていたと本多経由で聞いたが、犯人がわかった気がした。
見渡すと、佐伯に関心を持っている部員がほかにもいることに気づいて、まずいな、と思った。
佐伯が他人との関わりを拒否するせいか、どいつもこいつも佐伯と普通に付き合いたい、と考えているふうには見えなかったので、
不穏なものを感じた。
不祥事は困る。公になれば公式戦に出られなくなる。
松浦がそんなことを考え出した頃、佐伯はあっさり、特に理由もなく部を辞めた。
本多は勿論引き止めて、そのときようやく、本多も実は佐伯を好きなのだと、松浦は気づいた。
バレーの才能に目を留め、やがて興味が佐伯本人に移り、それが限りなく恋に近い感情に変化したのか、
あるいは最初から一目惚れだったのか。
いずれにせよ本多に自覚はなさそうだった。
その後接点がなくなり、松浦は佐伯を忘れ、さらに進路を揺るがす「あのこと」があり、本多とも決別した。
プロへの道を絶たれたことだけでなく、就職活動の困難さが、松浦に本多をより恨ませた。
実業団へ進める見込みだったがゆえに、一切の活動を行っていなかった松浦に企業はどこも冷たく、
続けられる限りバレーをしたいと願い、着実に結果を積み上げてきた松浦にとって、それは初めてと言える挫折だった。
仕事が決まらぬまま卒業し、伊勢島デパートの第二新卒対象の募集にひっかかったときは、涙が出そうなくらいほっとした。
「本多もキクチにいるんですよ」
再会した佐伯からそう聞いたとき、松浦の心に久し振りに憎しみが込み上げた。
本多もプロに進めずサラリーマンとなったことは、それが本多自身がもたらした結果だとしても、
溜飲を下げるほんの少しの役に立っていたのに、松浦がこんなはずではなかったと悶々としながら社会人生活を送ってきたあいだ、
本多はそれなりに楽しく過ごしていたのだ。
まさか佐伯と同じ会社を受けたわけではなかろうが、どこまでもお目出度くて運がいい男だ。
やがてプロトファイバーの営業で成果を上げた佐伯は親会社に引き抜かれ、後任として本多が伊勢島デパートに出入りするようになり、
松浦は自分が担当から外れるか、本多が外れるかを希望したが、入社数年の平社員の都合でそんなものが通るわけがない。
現在は和解した、と人は一言で片付けるのだろう。
松浦の気持ちはそう単純ではないが、とりあえず草バレーを見に行ってやってもいい、くらいにまでには譲歩した。
カレーの件で佐伯の手を煩わせたのは、遠回しな嫌がらせだ。
克哉克哉と連呼する熱血馬鹿の知らないところで、迷惑をかけてやれ、と思った。
同棲している部屋に入ることになったのは予想外だったが、男と付き合っていることに関しては今更だった。
本人の趣味はともかく、学生時代あれだけ男を引き付けていたのだから、むしろそのほうが自然だろう。
とすると、本多は失恋だ。
いくら馬鹿でもいい加減自分の気持ちに気づいているだろうから、女ならまだしも、ほかの男を選ばれたことに
さぞかし傷ついているだろうと思うと、笑いが込み上げてきそうだった。
佐伯のマンションからの帰り道。
タクシーの座席で零れないようにカレーの入った寸胴鍋を抱えながら、松浦は本多を許してやってもいいかもしれないと思った。
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