佐伯克哉の一番長い日 2  

克哉のMGNへの引き抜きは、ありえない速さで進められた。
大隈は通常の手続きのいくつかの順番を入れ替え、強引且つ派手に克哉を迎え入れる準備を整えた。
プロトファイバーの成功が社内で注目されているこの時期が、その営業を担った立役者として克哉の価値も高い。
出荷ミスのとき、責任を押し付けて切ろうとしたキクチの社員が克哉であったことを、大隈は把握していないだろうし、いたとしてもたいした問題ではない。
有望な若手社員を擁していなかった大隈にとって、子会社に克哉のような金の卵が埋もれていたことこそが重要なのだ。
一方御堂はといえば、大隈が派手に動く陰で調整役に徹した。
MGNでの受け入れ態勢を整え、見ようによっては親会社へ移るためにそれまでの仕事を放り出すようにも受け取られる、 慌しい移動に対する克哉への風当たりを弱めるため、キクチの上層部に対して懐柔も行った。
仕事の上でもプライベートでも、他人のためにこうまで手を回したのは、御堂にとっては初めてのことだ。

「…明日、出社します」
金曜の夜、ふたりしてベッドに倒れ込むと、克哉は僅かに御堂の肩を押し返した。
「…何時だ」
「…お昼前には。朝から、は無理だと思うので。すみません、事務作業がどうしても終わらなくて」
「わかった。…今日は控えめにする」
泊まりにきたからには、しないという選択肢はない。恥ずかしそうな残念そうな、克哉はなんともいえない顔をした。
「終わったら、ここに戻ってきてもいいですか?」
「送ってやるし迎えに行ってやるから、電話してこい」
「…いいんですか?」
当たり前のことに答えるのが面倒なので、唇を塞ぐ。
ついつっけんどんな自分の態度にも問題があるのだろうが、いつも様子を覗うような克哉の態度もどうかと思う。
「気をつけていないと、逃がしてしまいそうじゃないか」
声に出すと、克哉は不思議そうに目を開けた。
セックスのときだけ、克哉の瞳から遠慮や不安が消える。御堂が克哉を、天性の…と思うのはこういうときだ。
「御堂さん?」
「なんでもない」
髪を撫でながら頭を持ち上げ首の後ろに手をまわすと、克哉は嬉しそうに笑った。

翌日、朝も遅い時間に御堂は克哉を起こした。
寝かせたままにしておこうかとも思ったが、昨夜御堂に会うことを優先して、土曜の出勤となったのはわかっている。
シャワーを浴びてもまだ眠そうにしている克哉に、コーヒーの入ったカップを手渡すと、濡れたままの髪をドライヤーで乾かしてやった。
時折頭を後ろに立つ御堂のほうに傾けてくるのは、おそらく無意識だ。
そのたびに髪にキスしてやると、御堂が悪戯をしかけているかのように抗議する。
「誘ってるのは君じゃないか」
「誘ってません」
「君はほんとに可愛くて、タチが悪いな」
「可愛くなんかないし、タチも悪く…ないです」
後ろから抱き締めると、克哉は軽く身を捩った。
「離してください。仕事に行くんです」
「わかっているから、髪を乾かしてるんだろう?」
「もう…」
あまり触れると克哉が熱を帯びてくるので加減はしているが、他愛のないやりとりは楽しい。
好きな相手が自分といて笑うのがこんなに嬉しいものだと、御堂は今まで知らなかった。
「ほら、乾いた。着替えてこい」
一度御堂の服を一揃い着せられて出社させられて以来、克哉はスーツと私服を御堂の部屋に置いている。
上着を羽織った克哉は、困った顔をした。
「オレの服だけど…御堂さんの匂いがします」
「そうか?」
同じクローゼットに入れてあるし、フレグランスの匂いでも移ったかと思いながら、御堂は克哉の肩先に顔を近づけた。
「…服に、というより君から私の匂いがするな」
「ひえっ!?」
変な声を出して、克哉は飛び退いた。
「みみみ、御堂さんっ…!」
「そんな顔をするな。ある意味当たり前だろう」
御堂の部屋の御堂のベッドで抱き合って、絡み合ったまま眠ったあとだ。
「夕べも今朝も、シャワー浴びました…」
真っ赤になった克哉に、御堂もつられそうになり、表情を引き締める。
「抱き合いでもしない限り、他人にわかるものじゃない。
それともなにか。そういう心配があるのか」
「あるわけないじゃないですか…」
「ではなんの問題が?」
御堂の服を着ていると、御堂に抱かれているようで落ち着けない克哉だ。
問題は大有りだろう。
「帰ってきたら寝室に閉じ込めてやるから、さっさと仕事をすませてこい」
なんだったら、迎えに行った車のなかでしてやる。
耳元でそう囁くと、さっきまで赤かった克哉の顔色は青に変わった。
「み、御堂さん…」
「ほら、行くぞ」
御堂が車のキーを手にすると、克哉は慌ててあとを追ってくる。
「御堂さんはこれからどうするんですか?」
助手席でシートベルトを締めながら、克哉が尋ねてきた。
「少し買い物をしてから部屋に戻る。調べ物がある」
克哉と付き合う前の休日の過ごし方で、夜には人と会うことが多かった。
「すみません、御堂さんも忙しいのに」
なにに対して謝っているのだろう、と御堂は思う。
やはり会いたいのは自分ばかりだと思っているのだろうか、克哉は。
「克」哉、と言いかけたところに携帯が鳴った。
「あ、本多? うん、今から会社に行くけど」
克哉の声の調子が変わる。
親しげで、素っ気無い、心を許した喋り方は「親友」に対するものだ。
「えっ、と、あの。オレ、今別のとこにいて。うん、アパートじゃないんだ。いつもの駅は使わないから」
本多も休日出勤で、一緒に行こうとでも誘われているのだろう。
「うん。あー、うん、わかったから。うん、わかってるって。でももう残り一週間なんだから、その話はもういいって。 ううん、と、じゃあ、わかった、会社で聞くから。うん、あとで」
御堂といるとき、克哉は丁寧語を崩さない。七つも年が違い、社会的な立場も違う以上、いくら恋人とはいえ克哉に気安さを求めるのは無理があるし、 気安い態度がそのまま愛情ではないこともわかってはいる。
だが御堂にとって、本多は見過ごせない存在だった。
「随分揉めていたな」
「あ、えーと、ちょっと心配されてて」
携帯を閉じた克哉は、御堂に対する態度に変わる。
「なにを」
「MGNへ行って、オレがちゃんとやれるのかどうか」
御堂は眉間に皺を寄せた。
そんなことは本多が心配することではないという御堂の考えを察したのか、克哉が本多を庇う。
「オレ、ずっと頼りなかったし、本多には随分励ましてもらったし。で、突然会社変わることになって、ほんとに大丈夫かって」
だが普通、そういうことは口にしない。
いくら仲が良いとはいっても、会社の同期で同僚の引き抜き話にあれこれ意見すれば、やっかんでいると思われる。
本多が克哉を妬んで足を引っ張ろうとしている、とは御堂は思わなかった。
ことごとく意見は合わないが、あれはそういう男ではない。
ではなんだ。
克哉を本当に心配している。
あるいは。
手放したくない。
込み上げてくる激しい感情が、かえって頭を冷やさせ、御堂は克哉の横顔を見た。
自分が男を誘う存在であることに、克哉は気づいていない。
同じ目線なので誰が克哉を欲望の対象として見ているか、御堂にはわかるが克哉にはわからないらしい。
それでも、この先は色々と違ってくるだろう。
これまでは克哉が自分自身と共に他人も拒絶していたがために、何事も起こらなかっただけだ。
「親友、ね」
「え?」
「なんでもない」
誰も受け入れない克哉に対して、本多がキープしたのは特別なポジションだ。
おそらく本多にはっきりとした自覚はなく、克哉に対する執着を本当に友情だと思っているのだろう。今は。
克哉が御堂と付き合っていることを知り、克哉を欲望の対象として見てもいいのだ、ということを知れば、友情はあっという間に名前を変えるに違いない。
キクチの少し手前で御堂は車を停めた。
「本多の無駄話に付き合うのはほどほどにして、やるべきことをしてきたまえ」
「はい。あの」
土曜の午後のオフィス街に人通りは少ないが、どこで誰が見ているかわからない。
克哉はさっと周囲を見渡してから、シフトレバーを握る御堂の手に自分の手を重ねた。
「いってきます…」
それだけのことで、御堂の心拍数をどれほど上げたかも知らず、克哉はそそくさと車を降りた。    



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