佐伯克哉の一番長い日 3
エレベータの前で、役員と出くわした。
御堂が克哉の視界を遮るように位置をずらせたのは、それが大隈と対立する派閥の主だからだ。
「やあ、御堂部長。新しいプロジェクトは順調なようだね」
御堂に続き克哉にもおざなりな労いの言葉がかけられ、恐縮の言葉を返しながら、役員のうしろに立つのがまだ若い社員であることに気づいた。
「紹介しておこう」
役員の隣に立った男の名前に、克哉は聞き覚えがあった。
克哉と同い年で、役員の派閥の優秀な若手。
大隈専務は彼と張り合わせるために、克哉をキクチ・マーケティングから引き抜いた。
「よろしく。…佐伯君」
爽やかで若々しい自信に溢れた好青年が、白い歯を見せて笑い、手を差し出す。
「あ、はじめまして。よろしくお願いします」
対して克哉はまだどこか頼りなげだ。
それが気に障ったのか、相手は眉を顰めた。
「はじめまして…?」
同じ社内にいて、今日紹介されたからといって、はじめましてはおかしかっただろうか、と克哉は考えたが、向こうはすぐに笑みを取り戻して克哉の手を握り返した。
「まだ紹介されてなかったんだな」
執務室に戻ると、御堂はデスクにファイルを音を立てて置いた。
克哉といるときだけに見せる乱暴な仕草は、心を許しているしるしだ。
「はい。業務上全く関わりなかったですし」
「わざわざ向こうから引き合わせてきたか。
先週の企画が通ったことで、君の存在を意識せざるをえなくなった、というわけだな」
現在進行中の企画のほかに、一室はいくつかの案件を抱えていて、そのひとつの責任者は克哉だ。
一室が扱うにしては大きな規模ではないが、役員一同を前にしてのプレゼンテーションで承認を得た。
「オレの力じゃないです。御堂さんが物凄くフォローしてくださってるから」
「フォロー程度で実績を上げられるのは君の実力だ」
誉められているのに息苦しくなってくるのは、プレッシャーだろう。
自然と下がりかけた視線を、御堂は腕を伸ばし顎を捉えて邪魔をする。
「そういう態度は、これだけ実績があれば謙虚と受け取られて結構だ。まさか本当に萎縮しているなどと、言わないだろうな」
「でも、あの、信じられなくて」
「私をか?」
目を覗き込まれて、克哉は慌てて頭を横に振る。
「そんな、まさか」
「ではなにを疑う。仮に君がなにかしでかしたとしても、私がそれを受け止める。
出来ると思っているからやらせているが、急いていることは承知しているから、もしもミスがあればそれは私の責任だ」
克哉は唇を噛んだ。
MGNへ来てからの克哉の仕事は、御堂がその年齢でこなしていたレベルを基準に割り当てられている。
秋に行われる全社会議の取りまとめも、かつて御堂が経験したものだ。
だからこそ克哉はそれをしたかった。
「オレがミスをしたら、オレの責任です」
御堂はデスクにもたれて腕を組んだ。
一度外された視線が再び克哉を捉える。
「大丈夫。君は出来る」
否定を許さない強い響きに、克哉は大きく息を吸い込んだ。
自分を認めてくれる御堂の言葉は、克哉にとっては愛の言葉と同じくらいの重みがある。
信じられない、と言いながら矛盾しているが、今はもう克哉は自分の力を見くびってはいない。
MGN社内でも一目置かれているプロトファイバーの躍進に大きく貢献したのは、克哉がかつて所属していたキクチマーケティングの営業八課で、
克哉はそこでトップの成績を収めた。
MGNに来てからも、御堂に必死についていっている。
「出来ないことはさせない」
それが御堂の克哉に対する口癖だ。
御堂が出来ると思ってくれている。
それだけで克哉は、それまでやろうと思いすらしなかったことを可能に出来た。
これからも、出来る。
「佐伯君」
執務室を辞して、業務に戻った克哉は通路で呼び止められた。
先程引き合わされたばかりの彼だ。
「ようやく紹介してもらえたので話しかけられるよ。これまではなんとなく、接触しちゃいけない感じだっただろ?」
「あはは…そうかな」
年は確か同じはずだが、社歴の長い相手に対し敬語を使うべきかと思ったが、これから競うことになるかもしれないのに、変に引くのはよくないと判断した。
向こうの態度も親しげだ。
馴れ馴れしいほどに。
「それにしてもすごいよな。うちに来てたった数ヶ月で、こんなに存在感示すなんてさ」
「そんなことないよ」
「さすが」御堂部長のお気に入り。
そういう風に言われたことは何度かある。
だが続いた言葉は違った。
「さすが、なんでも出来る"克哉"君」
「…え?」
「キクチなんかにいたのはあれかい? ちょっと手を抜いてみました、ってやつ? それで気まぐれで本気出してみたら、こんな感じ?
いいよなあ。おまえの辞書に努力って文字はないんだろうなあ」
まくし立てられて、克哉は困惑した。
なにを言っているのだろう、彼は。
「あ、あの」
なおも続きそうな彼の言葉を、克哉は遮った。
「ごめん、なに言ってるのかわからないんだけど」
相手ははっとしたようだった。
「克哉…俺が誰だかわかってないのか?」
「え、えと、……君だよね」
覚えたばかりの名前を口にすると、相手の顔から表情が消えた。
「それは。仕返しか?」
「え? し、仕返し?」
本当に、なにがなんだかわからない。
彼は自分を誰か別の人と間違えているのだろうか。それとも。
「どこかで会ったことあったっけ…?」
営業をしていたときから、人の顔と名前を覚えるのは得意だった。
名前を忘れてしまっても、顔まで忘れることはまずない。
だが克哉の記憶に目の前の彼の存在はなかった。
不自然な沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと口角を上げた。
それは「好青年」の笑みではなかった。
「まあ、十年以上経っているからな」
声に出して、小さく笑う。
やがて視線が合わされた。
「小学校の同級生だよ」
「え…」
「おいおい、まだ思い出してくれないのか? "親友"だったじゃないか、俺達」
親友。
その言葉で克哉が思い出すのは本多だ。
ほかには、これまでずっと親しい友達はいなかった。
戸惑うだけの克哉の様子に、ま、いいや、と相手はまた笑った。
「全社会議の取り仕切り、おまえと俺のふたりでやることになりそうなんだぜ。
このあいだまで俺がひとりで、ってなってたのにさ。
そういうわけなんで、よろしくやろうよ、なあ"克哉"」
通路の向こうから呼ばれて、彼は行ってしまった。
戸惑いと共に克哉は取り残された。
なあ"克哉"
その呼ばれ方だけ覚えている気がした。
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