佐伯克哉の一番長い日 5  

「克哉、おまえ痩せたよな」
定食屋の向かい合わせで、克哉と本多は昼食を食べていた。
「そうかな。最近眠りが浅くって。そのせいかな」
「ほら、これやるから食え」
本多は自分の皿からトンカツを一切れ克哉の飯椀に乗せてきた。
「いらないよ」
「食っとけって。おまえ元々痩せすぎなんだからさ」
会社が変わってから本多と会う機会は減ったが、八課は今でも一室と取引があり月に何回かは顔を合わせる。
御堂は本多と出かけると嫌な顔をするが、今日はミーティングが終わったあと一緒に昼食に出て来いと言われた。
最近御堂は克哉に優しい。
あれこれを思い出してうっかり微笑んだ克哉を、本多は物言いたげに見つめた。
「おまえさあ…」
「なんだよ」
「いや、まあ、いいけどよ。やっぱ痩せたぜ。愚痴ぐらいは聞いてやるから、しんどいと思ったら連絡してこいよ」
「しんどいと思ったことはないよ」
「ほんとか? 御堂の下で働いててか?」
「御堂さんは優しいよ?」
ぽろりと漏らすと、本多は露骨に嫌な顔をした。
「おまえには、な」
克哉はどきりとした。
御堂との関係を、本多はまだ知らない。
話さなくては辻褄の合わないことが多くなっていて、いつまでも黙っていられないのだが、なにをきっかけに切り出していいのかわからなかった。
本多はトンカツ定食をがつがつと食べ始めた。
「最近気づいたけどよ、あいつ俺にだけ態度が違うんだぜ! 思い出しただけでムカツク!」
そのずっと前には、克哉にだけさらに態度が違ったのだが、本多には遠い過去だろう。
「…それは本多がそういう態度だからだよ」
「あっちが態度を改めたら、俺も考えるぜ」
喧嘩するほど仲がいい、とちらりと頭を掠めたが、口にすると面倒そうなので、克哉は自分の煮魚定食を完食することに専念した。
午後からのミーティングは、片桐も来て克哉も出席することになっている。
「本多。オレのこと気遣ってくれるなら、御堂さんと穏便にやってくれよな」
定食屋を出て雑居ビルのエレベータを待ちながら、克哉は本多に釘を刺した。
午前中は別に急ぎの案件があり会議室に入らなかったが、先程の様子ではやりあったのは間違いない。
「俺に言うより御堂に言え」
克哉はわざとらしく壁に手をついて胸の下を押さえた。
「…本多、オレ、胃が痛い」
「まじかよ、克哉。大丈夫か!」
「本多が御堂さんと喧嘩したら、もっと痛くなるかも」
「…ほんとに痛いのか?」
「うん。すっごく痛い」
エレベータの扉が開き、克哉は笑いながら乗り込んだ。

「御堂部長、今戻りました」
社に戻って執務室に入ると、片桐は御堂と共に克哉達を待っていた。
他課の課員も会議室に揃っているということで移動しようとしたとき、一室の入り口で"彼"と鉢合わせした。
「佐伯君、今からミーティング?」
「あ、うん…」
御堂には軽く会釈して、克哉に話しかけてくる。
彼は近頃よく一室に顔を出す。
業務には関係なく、克哉がいれば克哉に、いなかったり忙しかったりすると、ほかの者に話しかけてすぐ帰る。
如才なく振る舞うので、好意的に見られているようだ。
「佐伯君を意識してるのよ。これまで若手じゃ自分がナンバーワンだったから」
そう女性社員から耳打ちされたことがあるが、克哉にはよくわからない。
ただ、幼馴染であることは最初のとき以来、一切持ち出されなかった。
克哉が急ぐ旨を告げると、頑張って、と肩を軽く叩かれた。
微妙な違和感が肩に残る。
「今の方」
通路に出てから、片桐がいつもののんびりした調子で言った。
「佐伯君が眼鏡をかけていたときに、様子が少し似ていらっしゃいますね」
「…え?」
思ってもみなかったことに、克哉は思わず片桐を見返した。
本多は手にしていた資料を軽く振る。
「そうすか? 全然違うと思いますけど」
「勿論顔なんかは違うんですけど、なんて言いますか、雰囲気とか」
そう言われると、克哉もそんな気がしてきた。
眼鏡をかけても勿論自分は自分なので、鏡で見る以外、外から見たことはないが、 言葉ではへりくだっていても態度は強引で自信に溢れた彼の姿は、「俺」と似ていなくもない。
だがそのとき、それまで黙っていた御堂が言った。
「違うな」
静かだが強い調子に、本多も片桐も御堂を見た。
「佐伯君は彼のようではない。私は一度しか、佐伯君が眼鏡をかけたときに会っていないがな」
御堂の視線は克哉のそれを捉えていて、そのことに克哉は、からだの深いところから力が湧き上がるのを感じた。
「珍しく意見が合うな」
本多がぼそりと呟き、
「それならば、私の勘違いですね」
片桐は気を悪くしたふうもなく、にこにこと笑った。

一日の業務が終わり、御堂の車に乗り込んだ克哉は、窓に映った自分の顔を何気なく見た。
本当に少し痩せたかもしれない。
仕事はむしろ楽な時期で、プレッシャーといえば全社会議の取り仕切り役をやるにあたって、 役員に対して行う所信演説が控えていることくらいだが、 これもよほどのことがなければ落とされることはないとも、御堂から聞いているし、 前にやったプレゼンテーションのほうが準備が大変だったし緊張した。
「疲れたか?」
「あ、いえ」
ハンドルを握る御堂に首を横に振る。
「今日は久し振りに片桐さんや本多と仕事以外の話も出来て、楽しかったです」
短いあいだっただが、そういうふうに仕向けてくれたのは御堂だ。
ありがとうございましたと頭を下げると、別に、とそっぽを向く。
「だが朝に比べるとまだましだが、やはり顔色がよくないぞ」
「そう、なんですか? 別になんとも…本多には痩せたって言われましたけど」
「あいつは君をよく見ているからな」
吐き捨てるように、だがいつもとは少し違う感じに御堂は言った。
少しの沈黙のあと、御堂が口を開いた。
「このところずっと、夜うなされてる」
「え…」
「君の部屋に送ろう。そのほうがゆっくり出来るなら」
克哉が黙ったのを同意と受け取ったのか、御堂は指示器をマンションとは違う方向に出した。
ここしばらく帰っていない自分のアパートにどんどん近づいて、克哉は焦った。
次の交差点を曲がれば、住宅街に入り、そうしたらあっという間にアパートに着いて、克哉は降りなければならない。
どうしよう、と思っているうちに気分が悪くなってきた。
「あの、オレ」
思わず運転中の御堂の腕に触れてしまった。
直後に吐き気がこみあげてきて、その手を戻して口元を覆う。
「克哉?」
御堂が驚いて、車を路肩に止めた。
夜も更けていて、車道にほかに車はない。
「大丈夫か? 外の風にあたるか?」
「…大丈夫です。おさまりました」
額に手をあてて熱を確かめたあと、御堂は克哉の頭を自分のほうに引き寄せた。
シートベルトが肩を押す。
「やはり具合が悪いんだな。なぜそう言わない」
「いえ…今急に。あの、すみません、オレ、毎晩うなされてて、御堂さんが眠る邪魔をしてたんですね」
夜中に何度も目が覚めて寝返りを打ったりしていたが、気づかれているとは思っていなかった。
「そういうつもりで言ったように聞こえたか?」
御堂の声が怒っていることに、克哉は少し安堵した。
「だったら、あの。オレ、今日も御堂さんといてもいいですか? …夜、ひとりになりたくないんです。その」
嫌な夢を見るので。
子どものようだと思いながら克哉はついに言ったが、返事をしない御堂に、夢よりもっとリアルな恐怖を思い出した。
甘えすぎると、嫌われるかもしれない。
「あの、やっぱり…!」
顔を上げたのと、上を向かされたのが同時だった。
「御堂さ…」
唇が合わされる。
甘い口付けに克哉がしがみつくと、抱きしめかえしてくれる。
「そういうことなら早く言え。遠回りすることになった」
「…すみません」
「明日、午後から出社するというなら、このまま一緒にマンションに戻る。君はやはり疲れている」
平気だ、と思ったが、心遣いを無下にもしたくなかったので克哉は頷いた。
御堂は一度克哉から手を離しかけたが、ふいに動きを止めた。
「ひとつ確認したいんだが」
「はい」
「君の見る嫌な夢というのは」
言い澱む御堂など珍しい。
克哉は促すように少し頭を動かした。
「…私が関係してるのか?」
驚きと共に克哉は頭を振る。
「いいえ、まさか!」
「それなら、いい」
素っ気無く前を向いた御堂に克哉は当惑し、再び走り出した車内で考えなければならなかった。
克哉にとって御堂はすべてプラスの存在だ。
たとえ夢であろうと「嫌な」という言葉に結びつくわけがない。
なぜ御堂はそんなふうに思ったのだろう、と考えると、思い当たることはひとつしかない。
言ってもいいのだろうか。言っておかなければならないだろう、と克哉はおずおずと御堂の横顔を見た。
「あの、御堂さん。オレ、最初の頃のこと夢に見ても、今は別に嫌じゃありませんから…」
正確無比な御堂の運転が、一瞬だけややぶれた。
ここは言葉を尽くして納得してもらわなければ、と克哉は言い募る。
「たとえばですけど。夢のなかで御堂さんにものすごく怒られていたとしても、目が覚めたら、 今日の夢には御堂さんが出てきた、ってオレは嬉しいんです」
「…そんなに私は、君の夢のなかで怒っているのか」
どういう態度を取るべきか決めかねているのか、御堂の声は押し殺されていた。
「だからたとえば、です」
克哉はシートを少し倒した。
先程急激に悪くなった気分は、もう回復している。
「少しだけドライブしませんか?」
マンションのすぐ近くまで来ていたが、御堂はちらりと克哉を見てからハンドルを別の方向に切った。
「オレ、子どものときのこと、少し思い出したみたいなんです」
空に浮かぶ赤い月を眺めながら、克哉は言った。
車は動いているのに、月の位置は変わらない。
「やっぱりちゃんとは思い出せないんですけど。クラス中から苛められていたみたいです」
「君が?」
「たぶん六年生の頃。無視されたりとか、教科書とか体操着とか隠されたり」
「君はそんなタイプじゃないだろう。特に以前の君は。対象にされるには影が薄すぎる」
ほんとのことでも結構痛いです、と思わないでもなかったが、克哉は説明をした。
夢のなかの克哉は、勉強もスポーツもすごく出来るはきはきした子どもだ。
クラスメイトに冷たくされる断片的な記憶と共に、誉めそやされる場面も思い出した。
「今でも"すごく出来る子"だ。はきはきしていないだけで」
今度は克哉は乾いた笑いを漏らしたが、御堂としてはあくまで事実を述べただけらしい。
「昔苛められていたことを夢に見て、毎晩うなされていたとういうのか?」
顔の向きを変えて、克哉は御堂を見た。
「うーんとですね。負け惜しみっぽいですけど、苛められてることそのものは、わりと平気というか、耐えられる範囲なんです。 でも夢のなかでオレは、全力で自己否定しているんです。同時に、否定している自分がすごく大事で守りたいって思ってて」
矛盾したふたつの強い思い。
「自己否定した結果が今の君で、その前の君が眼鏡をかけたときの君か?」
結論の早さに、克哉は驚いた。
「君に眼鏡をかけたら人格が変わる、という馬鹿な話をされたことは覚えている。 私は信じなかったが、暗示にしてはパーフェクトすぎるとも思っていた。 だが君が過去に強くそれまでの自分を否定して、無理矢理自分の能力を封じ込めていたのだとしたら、 多少なりとも納得行く筋道が立てられるのではないか?」
あくまで冷静に話す御堂を、克哉は見つめた。
頭のいい人だということは承知していたが、こんなとんでもない話を理詰めで整理してくるとは思ってもいなかった。
「そ、そう。そうかもしれません…」
御堂の視点にはあの眼鏡が持っていた、形容しがたい不可思議さは抜け落ちている。
眼鏡をかけたときの人格が子どものときの克哉のものであったとしても、 眼鏡を手にするまで、克哉はあれが自分であることを完全に忘れていた。
意志の力で為しえることではない、とは当の克哉にしかわからない感覚だろう。
だが眼鏡の存在をあえて無視したとしても、御堂の言うように考えると、克哉のなかにもうひとりの佐伯克哉が存在する理由が説明できる。
実は克哉も自分でそこまでは考えついていた。
そして漠然とした恐怖に襲われ、立ちすくむ。悪夢の正体だ。
「そうすると、オレはニセモノですよね…」
御堂が僅かに顔を顰めた。
「オレの今の人格は自己否定したあとに作られたもので、本当の俺はそんなものが作られる以前の…」
「どちらも君だ」
最後まで聞く必要もない、というふうに御堂は遮った。
「え」
「言っただろう。今でも君は"すごく出来る子"だと。はきはきしてようがそうでなかろうが、たいした違いではない。 個人的な趣味で言うなら、多少おどおどしていたほうが面白いがな」
たまに苛々するが。と御堂は付け加えた。
おどおど。面白い。苛々。
思わぬ言葉を引き出してしまったが、そのまま受け取っていいのかどうか、克哉は眉根を寄せた。
御堂はそんな克哉の様子をまったく気にしない。
「それまでの性格で周囲と齟齬を生んだことで、自分を変えようとするのはよくあることだ。
君はそれを非常に巧みにやり遂げたんだ。本人ですら元の自分がどんなだったか思い出せないほどに。
だが結局のところ本質は変化しない。
君は特別だ。表面的にどういう態度を取っていようと」
少しずつ克哉の頬が熱くなってくる。
すごく誉められている気がするが、勘違いだろうか。
「君は今いくつだ」
「…25」
「小学校を卒業するまでとそれからと、ほとんど長さが変わらない。それだけの年月を今の性格で生きてきて、 今更どちらが本物もなにもあるものか」
おそらくこれ以上なれないというほど真っ赤であろう自分の頬を両手で挟んで、克哉は御堂を見つめた。
別段照れた様子もなく、御堂はあくまで普段の御堂だ。
だとすると、心からそう思っていることを言っているだけなのだろう。
存在の肯定が、克哉にとっては愛されている証明なのだと思いもせず。
「御堂さん、好きです」
今度は運転はぶれなかったが、御堂は強くハンドルを握り直した。
「…こんなところでいきなり言うな」
君といると事故を起こしそうだ、と言われて、克哉は慌てて謝った。
いつの間にか車は帰路に着いている。
「すみません。余計な時間を取らせてしまって」
「かまわない」
車内が静かになる。
克哉が一方的に話をしていないと、たいていこういうふうになるが、気まずくはなかった。
少しだけ疲労を感じて、克哉は目をつむった。
「今日、片桐課長が例の彼を、眼鏡をかけていたときの君に似ていると言っただろう」
克哉はゆっくり目を開けた。
「はい」
「そういうところがないわけではない、と私も思った。
だが根本的に違う。一瞬の印象だけなら眼鏡の君と彼は近しいが、深いところで眼鏡の君と同質なのは、かけていない君だ。
さっきも言ったが、君は特別だ。ほかならぬ君自身以外、誰にも似ていない」
外を流れる景色は既に見慣れたものだ。
もうすぐマンションに到着する。
克哉は胸の下でゆったり手を組んだ。
「もう一回好きって言ってもいいですか?」
「部屋に入ってからにしろ」
「はい」
克哉は笑った。
今夜は深く眠れそうだと思った。    



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