佐伯克哉の一番長い日 8
翌日から"彼"はぴたりと一室へ来なくなった。
ほっとした、というのが克哉の正直なところだったが、取り仕切り役はふたりで協力しなければならないので、問題もあった。
メールをしても意図的と思える遅い返信しかなく、内線を入れても席を外していることが多い。
明らかに非協力的な態度だが、よそから見れば「通常業務が忙しいから」という言い訳が通る範囲に留めているあたり、厄介だった。
ひとりで出来ることは極力自分でし、どうしても勝手に出来ないことは今度は克哉が彼の所属部署に足を運び、
直接話をすることにした。
いかなる理由があろうとも、この仕事を失敗するわけにはいかない。
克哉の失敗は、後ろ盾になっている御堂に責任を負わせる。
そんなことは絶対に嫌だ。
”彼”がどんな態度を取ろうと、それでどんなに気まずかろうと、克哉はあくまで自分の仕事をするだけだ。
ほとんどの雑務を克哉が担うことになり、
代わりに当日の挨拶など、人目につく華やかな仕事がすべて彼の担当になったが、そんなことはかまわない。
「佐伯君、今大丈夫? 電話が入ってるんだけど」
執務室にいると、女性社員がノックと共に顔を覗かせた。
「……君のところにかけてきたみたいなんだけど、出てるそうで。全体会議関係だからって、こっちにまわしてきたみたい」
使え、と御堂がデスクの上の電話を示したので、克哉は電話に出た。
相手は弁当の業者だった。
関係が悪くなる前に"彼"が、全体会議の昼食用にと発注をかけたところだ。
「数なんですけど、これでよろしいですよね?」
と、言われても克哉の手元には今資料がない。
それに思い返してみると、発注をかけたとは聞いたが、その後発注書のコピーなりを彼から貰っただろうか。
電話の相手は遠慮がちに説明した。
「あのですね。こちらの勘違いなら大変失礼なんですが、前回の御社の会議の折に、やはりうちを使っていただいたんですが、
そのときと比べて数がですね、少々違うように思いまして」
弁当の数など、そのときによって違って当然だろうと思ったが、聞けば桁がひとつ少ないらしい。
「そんなはずは」
克哉は思わず言っていた。
参考にするため、前回の全社会議のことも調べたが、規模としてはほぼ同じだった。
用意しなければならない昼食の数も、たいして変わりはなかったはずだ。
「ええ、あの、うちとしましても前回と同じくらい、と先に伺っておりましたし、
ファクスでご注文いただいたので、ひょっとして印字が掠れて0がひとつ移っていないとか、
そういうこともあるのかもしれないと、失礼を承知で確認させていただいた次第でして」
こちらが送った発注書を執務室にファクスしてもらい、電話を切らずに届くのを待って確かめると、
確かに桁を間違ったとしか思えない数字が記入されていた。
克哉はミスがあることを認め、至急正しい数で発注をかけることを相手に告げた。
「今からで当日すべて用意出来ますか?」
既に全社会議まで一週間を切っている。
「今日中に数がわかればなんとか。あの、それでお電話させていただいたんです」
克哉は礼を述べて電話を切った。
一桁違えば向こうにとっても大きく売上げが違っただろうが、連絡してくれて助かった。
「わざとだな」
一部始終を見ていた御堂が、"彼"の書いた発注書を克哉の手から取り上げた。
「これは毎回ほぼ同じ数を発注しているんだ。間違えるとは思えない。
だがそれは後回しだ。今は正しい数をすぐ発注してこい。
それからほかの業務は中断していいから、彼が発注したものに関してすべての数のチェックと、
ほかにも彼の担当業務の中身を再チェックしろ。今日中にひとりで終わらせられるか?」
「…やります」
途方もなさに泣きたくなったが、やるしかない。
会議に関する電話以外は出なくてもいいことにしてもらい、集中するため克哉は会議室にこもった。
「嘘、だろう」
ありえないほど、次々と数字のミスが顕になる。
いや、これはミスではない。御堂の言うとおりわざと、故意に違った数字が書き込まれていた。
克哉が発注したパンフレットの数も、あとから修正されて減らされている。
明日にも納品されるはずのパンフレットの増刷が、今から頼んで間に合うのか。
すぐに電話を入れたが、当然否定的な言葉が返ってきた。
間に合うかどうかわかんないよ、という業者に、なんとかお願いしますと頼み込んだ。
直接出向いて念を押さなければ不安でならないが、社内で用意する備品の数にまで手が加えられているので、
これもなんとかしなければならない。
夕方印刷会社に出向いて頭を下げ、定時を過ぎて再び戻ってきて、社内で用意するもののチェックと手配をやり直した。
手配後は総務が作業してくれることになっていたが、直前の変更のため、明日以降克哉も手伝わねばならないだろう。
すべてが終わると、日付がとうに変わっていた。
あまりに焦って必死だったので、それまで食欲どころか喉さえ渇いたように思わなかったが、少し余裕が出来た。
克哉は藤田が差し入れてくれた、サンドイッチとコーヒーの入った袋に手を伸ばした。
紙袋を開く音が、室内に響く。
一室には当然もう誰も残っていない。
会社中でも仕事をしているのは克哉だけだろう。
御堂さんはもう寝たかな…
待っていてもいい、と言ってくれたが、先に帰ってもらった。
帰る前にメールしたほうがいいだろうか。でも寝ているのなら起こしてしまうかもしれない。
すっかり冷めてしまったラージサイズのコーヒーを飲みながら、克哉は強張っていた顔が緩むのを感じた。
どんなに仕事が大変でも、御堂のことを思うだけで幸せな気持ちになれる。
やはりメールしよう。帰り際、終わったら連絡しろ、とも言ってくれたし。と、克哉が携帯をポケットから取り出した。
と、同時にドアが開いた。
「お疲れ様、克哉」
克哉は携帯を落としそうになった。
"彼"だった。
「なんで」
後ろ手にドアを閉めて、彼は微笑んだ。
「俺だって全社会議の取り仕切り役なんだぜ? 克哉がそれで残業してるなら、俺も残るのが当たり前だろう?」
「…よくそんなことを」
怒りがすべてを上回り、いつもの一歩引いた佐伯克哉の姿勢を崩させた。
個人的にどうであろうと、わざと仕事を失敗するなど許せない。
「一体どういうつもりなんだ! こんなことをしたら、おまえだって得はしないはずだ!」
「するよ。克哉が一番になるところを見なくてすむ」
さらりと言われて、克哉は言葉を失った。
克哉のすべての優先順位の一番に御堂が来るように、彼のなかでは克哉の存在がなによりも前に来るのだということを、
初めて理解した。
だが。
「なにを言われても、されても、オレはおまえの特別にはなれないし、友人にもなれない」
気力を振り絞って、克哉は声を出した。
昼食の手配は彼と克哉が倉庫での会話をする前に終えられていたもので、その時点で彼は既に罠を用意していたということだ。
「オレはおまえを、信用できない」
「そう」
彼は眉ひとつ動かさなかった。
「かまわないよ。でもそんなこと言われたら俺、ますます克哉が失敗するとこ、見たくなったなあ。
なあ、全社会議の当日、わざと大失敗して見せろよ。みんなの前で、派手にさ」
「ふざけるな…!」
「本気だ。克哉が言うことをきいてくれないと、御堂部長と克哉の関係をばらすよ?」
克哉の心臓が跳ねた。
「なにを…」
「今、動揺したね。隠すことはない。俺は知ってるから。
克哉が御堂部長の恋人で、御堂部長の高級マンションで同棲してるってこと。
写真もあるよ。見る?」
彼は内ポケットからちらりと封筒を覗かせた。
落ち着け、と克哉は自分に言い聞かせる。
はったりだ。
そんなものはない。
克哉が食いついてくるのを待っているだけだ。
だがもし本当だったら?
写真などなくても、克哉と付き合っていることが会社に知れたら、御堂の立場は?
「どうしようか考えているのか? ああ、そうか。取り入った相手が失脚するのと、自分が仕事で失敗するのはおんなじことか。
そうだな。じゃあ、条件を変えてやる。俺と付き合えよ、克哉。そしたら黙っててやるし、御堂部長ともそのまま付き合えばいい。
面白いじゃないか。社内きってのエリートが、実は年下の男の恋人に裏切られてるなんてさ」
頭に血が昇る、という状態を、おそらく克哉は生まれて初めて経験した。
記憶が曖昧な子どもの頃にも、そんなことはなかった気がする。
克哉は"彼"に近づくと、ワイシャツの襟元を掴んで壁に彼のからだを叩きつけた。
パーテーションで仕切られただけの柔な壁が、大きな音を立てて揺れた。
そのまま克哉は"彼"の首が絞まるくらいに襟元をきつく掴み続けた。
「…やれよ」
怒りで声がくぐもった。
「やりたいなら、写真でもなんでもばらまいてみろ。殺してやる」
心の底からそう思った。
それまでの態度とはまったく違う克哉の表情を見た彼は、驚愕に目を見開いた。
そこに恐怖の色が混じっているのを、克哉ははっきり確かめる。
突き放すように手を離すと、パソコンにロックをかけ、荷物を掴んで会議室を出た。
通用門から外に出て、異様な早足で歩き出したところを止められた。
「克哉!」
御堂の声だ。
驚いて見渡すと、反対車線に御堂の車が停まっていた。
「御堂さん、どうして…?」
呟きながら、克哉は車も人もほかに影さえない、真夜中の車道を横切った。
「御堂さん、帰ってなかったんですか」
「帰った」
確かによく見ると、スーツではない。
「一回帰ってから、来てくれたんですか…?」
言いながら、嬉しくなってきて克哉は笑った。
何時に出てくるかもわからない克哉を、どのくらい待っていてくれたのだろう。
御堂は車を発進させた。
「なにかあったのか。すごい勢いで会社から出てきたぞ」
「え、あ…」
口篭った克哉に、御堂は鋭い視線を向けた。
「言えないようなことでもしてきたのか」
「ち、違いますっ。あ、でも、御堂さん、オレ、啖呵切ってきちゃったんですけど、どうしよう…っ」
御堂の顔を見て気が緩むと、自分の行為が勢い余り過ぎていたことに気がついた。
感情を大きく動かしたことで気が昂ぶっていたせいもあって、先程のやりとりと、まだ話していなかった、
"彼"が子ども時代のいじめの首謀者であったことまで一気に話してしまった。
途中口を挟むこともなく最後まで聞いた御堂は、ちょうどそこでマンションに着いたので、克哉におりるよう促した。
「御堂さん」
「時間も遅い。早くしないと寝る時間がなくなるぞ」
もたもたとシートベルトを外していると、先におりた御堂に手を引っ張られた。
そのまま手をつないでエレベータに乗り込む。
「御堂さん、あの、怒ってます?」
「なにを」
「オレ、勝手に、したいようにしろって、ほんとにそんなことになったら、迷惑するのは御堂さんなのに」
「脅しは一度屈したら終わりだ。君の対応が最良だと私は思うが?」
「そ、そうなんですか?」
「むしろよく言えたと誉めてやりたいくらいだ」
「それはその」
本当に、殺してやる、と思ったのだ。あのときは。
御堂を欺いて自分と付き合え、と言われたことは、さすがに御堂には話さなかった。
だが、欺いて、の部分が、克哉が自身で驚くほど怒りの元となった。
深夜のエレベータが静かに上っていき、手をつないだまま、キスをする。
「やるべきことは全部出来たのか」
「はい、一応は。明日から当日まで、日付が変わる前には帰れないと思いますけど」
「迎えに行ってやる」
「…オレ、終わる頃電話しますから。そしたら、来てくれますか?」
来ないでいい、と言っても来てくれるのだろう、と思えるくらいは、克哉は自惚れていいのだと学んでいた。
絡めた指に、どちらからともなく力が込められた。
その夜克哉は夢を見た。
子どものときの夢だが、いつものように途切れ途切れではなく、時系列に場面が並び、筋が通っていた。
バイバイ、克哉。
幕はそこで下りた。
カーテンの隙間から、白み始めた空が覗いているのを、克哉はぼんやり眺めた。
少し腕を動かすと、隣に眠る御堂に触れる。
規則正しい寝息が愛しかった。
オレはもう裏切られてショックを受けてた子どもじゃないし、なにをしてもうまくいかないダメな奴でもない。
恋が自分を変えたのだと思うと、顔が熱くなった。
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