佐伯克哉の一番長い日 11
"彼"が海外勤務を希望している、と聞いたのは、冬になってからだった。
情報通の女性社員によると、希望は次の人事異動で通る見込みだという。
「米国本社じゃないみたいだから、どうなのかしらね。その選択」
思い直すよう上からかなり言われたらしいが、本人がどうしてもと譲らなかったそうだ。
入社以来若手トップと言われてきたが、これでコースアウトというのが大方の見方だ。
「君が追い落とした、などとは思わないことだ」
同じ日、やはりどこかで"彼"のことを聞いてきた御堂に言われた。
「競っていれば敗者は生ずる。負けたほうは退くしかない」
「オレは負かしたわけではないと思うんですけど」
「負けた、と感じただけで退く相手もいるんだ」
そうなのか、と克哉は思った。
人の気持ちは計れきれない。
それからしばらくして、克哉は"彼"の所属する課に行ってみた。
忙しいだろうからいないかもしれない、と思ったが、意外にも彼だけがいた。
克哉を見て驚いた顔をしたが、すぐに取り繕うように口元に笑みを浮かべた。
「ひとりなのか?」
「俺だけなんだよ、暇なのは。よかったら外にコーヒーでも飲みに行かないか」
「二時から人が来るんだ」
「じゃあ、休憩室のカップコーヒーにしよう」
克哉の返事を待たずに、彼は立ち上がった。
昼休みが終わったばかりの休憩室は静かだった。
「奢ってやるよ。どれにする?」
「いい。自分の分は自分で出す」
きっぱり言い切った克哉に、彼は肩を竦めた。
椅子は空いているのに、ふたりとも立ったままカップに口をつける。
「あ」
窓に顔を向けていた克哉の呟きに、彼も外を見た。
雪が風に舞っている。
「へえ、初雪だな」
「…桜の花びらみたいだ」
「そうか? 俺、桜って嫌いでさ」
克哉と目が合うと、彼は苦笑した。
「珍しいって言われるよ」
「オレもあんまり好きじゃない」
彼の顔から笑みが消え、また戻った。
「そっか」
来年の春はどうだろう。
克哉は考えた。
桜にまつわる記憶は戻った。
来年満開の花を見て、そしてそれが散り行くのを見て、やはり自分は落ち着かない気持ちになるのだろうか。
なんとなく、もう平気な気がする。
今この雪を桜のようだと思っても平気なように。
「異動のこと」
克哉が切り出すと、ああ、と彼は頷いた。
「蒸し暑いとこに行くことになりそうだ」
「からだに気をつけて」
ほかに言葉がなくてそう言うと、彼は少し間を置いてから噴き出した。
「…なに」
「いや。おまえってほんと…まあいいや」
「なんだよ。言いかけて止めるなよ」
「いや。そんなお人好しだったっけ、って思っただけ」
笑いながらコーヒーを飲み干す。
「似合ってるな、それ」
急に話題が変わったので克哉は途惑ったが、
彼が自分の左手を少し上げたので、なにかわかった。
薬指のプラチナリングのことだ。
表情を消した克哉に、彼はゆっくりと首を横に振った。
「おまえが誰を好きでも、俺にはもう関係ない。写真の話は嘘だ。言いふらしたりもしない」
克哉が目を逸らさずにいると、"彼"は薄く笑った。
「結局俺はおまえにそんな顔しか向けてもらえないんだな」
でもさ。と彼は言葉を切った。
「小学校まで一緒だったただの幼馴染で終わるより、そのほうがいい。
なんでもない人より嫌な奴のほうが、インパクトあるだろ?」
だからおまえは御堂さんと付き合ってるんだろ。
そう言われて、克哉は本気で気分を害した。
おまえと御堂さんは全然違う。
そう言ってやろうかと思ったが止めにした。
結局恋に理由などない。
空になった紙コップをくしゃりと潰し、ゴミ箱に捨てる。
「じゃあ、元気で。少し早いけど」
「くたばっちまえ、って思ってるくせに」
ちょっとだけそう思っていたので、克哉は言い返さなかった。
通路に出ると、大きな窓から外の様子がよく見えて、
立ち止まって近寄ると、ガラスに張り付いた冷気が肌に伝わってきた。
雪は既に雨に変わっている。
「あ、佐伯さん。こんなところにいたんですか」
藤田が向こうからやってきた。
天候のせいで交通機関がマヒして、来客の時間が遅くなるか延期になりそうだと言う。
「それで先に一室のミーティングをしようってことになりまして」
御堂を待たせてしまっているのかと心配したが、まだ時間に余裕はあり、藤田もそれまでに欲しい資料があって、このフロアに来たそうだ。
「あー、雨に変わってるんですよね。ヤだなあ」
窓の近くに立っていた克哉の横に並び、藤田は顔を顰めた。
「藤田君、雨嫌い?」
「嫌いですよう。特にこの季節は。寒くて濡れたら惨めな気持になりません?」
「オレは結構冬の雨って好きなんだ」
微笑んだ克哉に、藤田は不思議そうな顔をした。
「御堂部長もさっきそんなこと言ってましたよ」
「え」
佐伯さんと部長は感性合うんですねえ、となんの意図もない藤田の言葉に、克哉は思わず顔を赤くした。
「藤田君、そろそろ行こうか」
「そうですね。遅れたら大変です」
克哉はそっと右手で左手の指輪に触れた。
カードキーの入った胸ポケットに手をやる回数は減り、今はこれが克哉のお守りだ。
あの雨の日からここまで、随分遠いところへ来た。
MGNへ来たのはまだ何ヶ月、と数えられるくらい最近のことだが、そのときは御堂の手助けが出来れば、と思っていた。
今は、同志になれたら、と願う。
嬉しいときには勿論だが、痛みを共感出来る存在になりたい。
なろう、と思った。
END
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