佐伯克哉の一番長い日 一緒の意味 1  

それはまったく突然の人事だった。

人事部長の呼び出しを受けて戻ってきた克哉は、その後の業務でミスを連発した。
いつもは完璧な仕事ぶりゆえに余計に目立ち、具合でも悪いのではないかと心配する声が御堂の耳にまで届いた。
「どうしたんだ、佐伯君」
御堂は報告書を提出しに執務室に来た克哉を呼び止め、来客用のソファに座らせた。
「君に限ってやる気が出ない、などということはないだろうが、なんだか顔色が悪いな」
「いえっ、大丈夫です。申し訳ありません…」
言葉尻が消えそうで、御堂は眉をひそめた。
「克哉」
落とされていた肩が、びくりと震える。
「君も知っているだろうが私は忙しい。余計な手間は取らせるな。 具合が悪いのでなければ、なにがあったかさっさと言え」
克哉は強情だが、御堂の仕事を邪魔してまで我を張ろうとはしない。
それでもしばらくもじもじしていたが、俯いたまま、ようやく重い口を開いた。
「…昼一番で人事部長に呼ばれて、秋から福岡に行けと言われました」
今度は語尾が涙声になった。
「御堂さん…」
みっともないと普段なら叱るところだが、 一室を離れる話が進んでいるのに、御堂が黙っていたと思えば無理はない。
膝のあたりのズボンの生地をぎゅっと握り、克哉は顔を上げたが、 御堂が無表情に正面から見据えると戸惑い顔になった。
「あ、あの、御堂、さん?」
「福岡だと…?」
「は、はい」
搾り出された御堂の声に、克哉は反射的という感じで返事をした。
「福岡でなにをするんだ、君は」
「副支社長として働いてもらうって…」
「それで君は受けたのか」
「いえ…少し考えさせてくださいと言いました」
内示の前の段階だと言われたので、返事は保留にしたらしい。
御堂は軽く唇を噛んだまま息を吐いてから、「そうか」と言った。
さっと立ち上がった御堂を追い、克哉は中途半端に腰を浮かせた。
「君はこの件に関して、これ以上なにも言わなくてもいい。あとは私のほうでなんとかする」
「なんとかって、あの。それじゃ、御堂さん、この話は御堂さんから出たものでは…わっ!」
御堂は腕を伸ばし、克哉のネクタイを掴んだ。
彼らの関係は仕事とプライベートが絡み合っている。
一室から放り出した上に引越しを伴う転勤を御堂が認めたとなれば、克哉がショックを受けたのも当然のことだ。
それはプライベートの清算も意味する。
「私が君を手放すとでも?」
低い声で囁いてやると、克哉はしばしぼうっとした表情になり、やがてぱあっと笑顔になった。
「御堂さん…」
「仕事中にそんな顔をするな」
言いながら、御堂が人差し指を克哉の唇に押し当てると、克哉はぺろりとその指を舐めた。
無意識なのか意図的なのか判然としない、天性の表情で。
その目は「あなたが好きです」と告げている。
「…まったく、君は」
言葉だけは忌々しげに、態度はあくまでエレガントに、御堂は克哉の顎を掴むと、一瞬触れるだけのキスをした。

克哉の転勤に関して、御堂はまったく寝耳に水だった。
一室に配属されて以来、克哉は即戦力として充分成績を上げているし、進行形で取り組んでいる企画もある。
この時期に異動させて社として意味があるとは思えないが、組織は時々理屈に合わないことをする。
克哉を業務に戻らせると、御堂は大隈専務へ内線をかけ、秘書に専務のスケジュールを確認した。
幸い専務は社内にいて、御堂はすぐさま役員室のあるフロアへ向かった。
「佐伯君を福岡支社に転勤させる話が、具体的に進んでいるようです」
万に一つの可能性として、大隈が絡んでいるかもしれないとの疑いは、役員室へ入るなり御堂が切り出したときの反応で消えた。
大隈は最初、冗談と思ったらしく笑ったが、克哉が人事部長に呼ばれたところから詳しく説明すると顔色を変えた。
佐伯克哉は大隈が子会社から引き抜くよう指示した大隈派の有望若手社員だ。
実際のところ克哉の忠誠心は御堂に向いていて、その御堂は会社に対するロイヤリティの薄い人間だが、 それでも一番近い会社幹部が誰かとなると大隈だ。
「副支社長とはまた、大層なのかそうでもないのか微妙なポストを用意してきたな」
副支社長は空いていることも多いポストだが、本社の課長と同程度の権限と報酬を約束されている。
二十代半ばの社員なら充分魅力的とはいえ、一室で御堂に目をかけられ実際に評価されている克哉は、 このまま行けば御堂が一室の部長になった年齢より若くして、その地位に就くこともありえる。
本社の花形である商品開発とは違う支社の業務に今就くことは、この流れから離れることになり得ではなかった。
「福岡支社長と君は相性が良くなかったな、御堂君」
「以前は」
実はそのあたりが今回の話の発端だろうと御堂は踏んでいた。
大隈と同世代の福岡支社長は御堂とウマが合わず、さりとて対立するような事柄もなかったので長らく一定距離を保った関係だったが、 克哉が来てから様子が変わった。
完全実力主義とはいえ、MGNで一番若い部長に対し、へりくだった態度を求める年嵩の人間は多い。
御堂は必要があると思えばそういう態度も取るが、必要がないと思えば一切頭を下げない。
福岡支社長に対しては礼を欠かない程度に振る舞っていたが、目上の者に敬意を示さないそういう態度が不愉快だったらしい。
一方克哉はへりくだりすぎるタイプだ。
その克哉がなにかと御堂をフォローするので、支社長は御堂に対する見方を変えてあたりが柔らかくなった。
若いのに気配りが出来て状況判断も適切だと、克哉本人を気に入っているのも御堂は知っていた。
「私に隠れてこそこそと人事に働きかけてことを進めるなど、言語道断。そんなものは無効だ!」
大隈が激昂するので、御堂はかえって冷静になれた。
プロトファイバーの生産ラインのときもそうだったが、大隈はプライドを損なわれるような行為に関して酷く敏感だ。
配下であると思っている克哉を、自分の派閥でない福岡支社長が取ろうとしているとなると、 御堂が焚きつけるまでもなくアクションを起こしてくれるだろう。
福岡支社長がどこまで根回ししているのかわからないが、こういうことに関して大隈より上手であるならば、 今頃もっと上のポジションにいるはずだ。

「迂闊だったな」
帰宅のために車に乗り込みドアを閉めるなり、御堂は言った。
「ヘッドハントはありえると思っていたが、社内でちょっかいを出されるとは思っていなかった」
助手席の克哉が苦笑する。
「ヘッドハントもありえないです」
「相変わらず君は自分のことがわかっていないな。
若くて色がついていないから、欲しがる向きは多い」
「…仕事の話ですよね?」
「ほかになにが?」
勿論仕事の話だったが、はぐらかしてやると克哉は赤くなって下を向いた。
自信がなくて俯かれるのは苛々するが、御堂が苛めて俯くのはその限りではない。
「でもよかった」
俯いたまま、克哉は呟く。
「御堂さんにいらないって言われたのかと思ったときは、目の前が真っ暗になりました」
言うわけがない。そんなことを。
「君は本当に馬鹿だな」
「はい…すみません」
謝る口元が綻んでいるのが、運転している御堂に伝わった。
「でも、サラリーマンなんだし。本当にそんな辞令がおりることもあるえるんですよね。
覚悟しなきゃって思いました。
御堂さんだって、ずっと一室の部長という立場じゃないでしょうし」
しょんぼりした口調を、御堂は切って捨てた。
「そのときは会社を辞めればいいことだ」
「え?」
「会社は働かせてもらう場ではない。自己の目的を達成するための場だ。 会社と自己の目的が食い違った場合、新たな達成の場を求めるのは当然ことだ」
赤信号で止まると、克哉が目をぱちぱちさせていた。
どうやら御堂の言ったことが、理解の範疇を超えていたらしい。
「御堂さん…格好いいです。サラリーマンなら一度は言ってみたい台詞です」
なにを他人事のような。
「君には私と同じ価値観でいてもらわないと困る」
少し考える様子のあと、克哉は困惑気味に言った。
「無理…です」
御堂が思い切り睨むと、再び思案してからまた言った。
「頑張り、ます」
「よろしい」
一日中近くにいる御堂と克哉だが、会話をするのは帰宅の車中であることが多い。
いろんなものを背負い込む傾向にある克哉になにか言ってやらねば、と思うとき、 御堂はハンドルをマンションとは違う方向に切り、遠回りする。
克哉はいつも御堂の横顔を一生懸命見つめているので、その視線を受けながら、 彼を思いやってあれこれ言葉を尽くす、ということは気恥ずかしくて出来ない。
車のなかは暗く、運転するため前を見ていなければならないから、御堂にとっては克哉と話をする最適の空間だった。



戻ル