恋の話 0.5
いつもよりずっと早くアパートに帰ってきて、克哉はスーツも脱がずに机の上に乗せたものをじっと見ていた。
今日は一日事務仕事をしていたが、少しだけオフィスを抜けて受け取ってきた、それはパスポートだった。
隣には封筒に入れられた書類。
こちらは退職願いだ。
ここに航空券を並べれば、実行しようかどうか迷っている、克哉の計画は完璧になる。
このまま自然消滅だけは絶対嫌だ。
でも追いかけていって、冷たくされるのが怖い。
一月前、御堂がニューヨークに行って以来、何度も繰り返した考えが、また堂々巡りを始める。
御堂が渡米することは、付き合い出して割合早い段階で克哉も知っていた。
その気になりさえすれば、もっと早くに実現していたようだが、克哉のために引き伸ばしていたこともわかっていた。
自惚れているのではないと思う。
だが実際に日程が決まったあと、御堂も克哉もそのことについてほとんど触れなかった。
克哉は自分がどうしたらいいのかわからなかったし、御堂もなにも言わなかった。
ついてこいとも、待っていろとも。
結局曖昧なまま、御堂は行ってしまった。
これでは一年前と同じだ。
御堂がMGNを辞め、克哉もプロトファイバーの営業から外れ、連絡が取れなくなったあの一ヶ月。
あのときとは違い、今は克哉がメールを送れば返事はあるが、それもいつまで続くかわからない。
「中庸は罰」
眼鏡を返したあの日、ミスターRに言われた言葉を音にしてみる。
幸せでもないが傷つきもしない。
好きな人がいて、その人も自分を好きでいてくれる喜びを知ったあとでは、そんな毎日は罰と同じだ。
このまま諦めてしまうなんてできないが、御堂は動いてくれないだろう。
自分のために転勤を遅らせてくれているという自信と同時に、まるで深みにはまるのを恐れるかのように、御堂が注意して自分との距離を取っているのもわかっていた。
歯痒く思っても、強く求めすぎると失うかもしれず、あと一歩のところでどうしても心を掴みきれなかった。
「中庸は罰」
克哉はもう一度口にした。
追いかけていくのに、会社を辞めていく必要はなかった。
一度会ってきて、御堂の気持ちを確かめてから、どうするか決めるほうが普通だろう。
でも。
一年前の夜、克哉は御堂のマンションの前まで行き、雨が降ってきて帰ってしまった。
御堂はあのとき部屋にいて、克哉を見ていたのだとあとから聞いた。
濡れても風邪をひいても待ち続けていたら、降りてきてくれたかもしれない。
実際そのことがあったから、転職を知らせる葉書に電話番号を書いてきてくれた。
追いかけるならすべてを賭けて。
もしも御堂がこの関係の終わりを望んでいるのであれば、御堂の口からその事実を告げられたいし、どんなに辛くても受け入れる。
克哉は深く息を吸い込み、週明けに辞表を片桐に提出し、退職の日程が決まったら航空券を取ろう、と決意した。
小さく手が震えているのに気づいて苦笑したそのとき、インターホンが鳴った。
宅配が届く予定もなく、独り住まいに来客などないに等しい。
勧誘だろうか、と思いながら受話器を上げたが、ノイズだけで言葉は返ってこない。
克哉は誰何する。
「どちらさまですか?」
「…私だ」
克哉の手から受話器が滑り落ち、考えるより先にからだが動いて走っていた。
会いたいと思いすぎて、幻を見ているのかと思った。
最後に会ったときと同じチャコールグレーのコートを着た御堂が、克哉の部屋の前に立っていた。
思いが空回りして声が出なかった。
さっきの衝動はなんだったのか、ドアノブを握ったまま今度は動けない。
御堂は無言のまま克哉の手に手を添えると、玄関のなかに入りドアを閉めさせた。
帰ってくる予定があるなんて、聞いていない。
一昨日メールしたときには、週末は仕事の付き合いでなんとかいう別荘地に行くと言ってなかったか。
聞かないことにはわからないのだが、それよりも見つめることに気を取られる。
こんなに会いたかったのだと、克哉は自分の気持ちに改めて気づいた。
克哉の部屋の真ん中で、御堂はただ克哉の視線を受け止めている。
幻なら、触れたら消えるのだろうか。
そんなことを思いながら、克哉は両腕を伸ばした。
会いたかった…!
そう伝えたいのに、やはり声が出ない。
代わりに首に腕をまわしてしがみついた。
頭のうしろに手をあてられ、引き離されようとするのに抗うが、髪を掴まれて仰け反ってしまう。
いやだ、と言おうとする唇を、唇が塞ぎ、たちまち克哉はその熱さに夢中になる。
この人は、オレのものだ…!
陶然としながら、今まで思ったこともなかったことを思った。
「…君は私のものだ」
言葉の形に動く唇が、唇を掠める距離で御堂が言った。
驚いて目を開けた克哉は、笑い出したくなった。
なのに、目元が熱い。
気を抜いたら、涙を零してしまいそうなほどに。
「そうです」
克哉は言った。
「オレはあなたのもので、あなたはオレのものです」
好きだととっくに告げていたのに、どうしてそれがわからなかったのだろう。
わずかに一歩後ろにひいた御堂の心を引っ張るように、克哉は瞬きさえせず御堂を捉えた。
「たとえあなたがオレと出会ったことを後悔していても、そうなんだから仕方ないんです」
反論を許さないと、克哉から唇を重ね舌を求める。
しばらく御堂はされるままだったが、やがて主導権を取り戻し、克哉を翻弄し始める。
「君は私が後悔していると思っていたのか?」
「…違うんですか?」
押し倒されて、男二人分の負荷には耐え切れないベッドが軋んだ音を立てる。
普通に照明のついたままの部屋で、半裸の克哉を見下ろしながら御堂はゆっくりと言った。
「後悔したことはないな」
次の瞬間、克哉が見たのは、「接待」の頃を思い出させる不遜で高慢な、それでいて否応なく人を惹きつける薄い笑みだった。
「私は戸惑っていただけだ。
仕事や地位と引き換えに手に入ったものが、予想外に価値があったことに」
克哉は眉根を寄せた。
「どう考えても釣り合ってませんよ。失ったものと手に入れたものが」
「帳尻はこれから合う。利息もついてな」
「置いていったくせに」
御堂に対して使ったことのない生意気な喋り方だったが、御堂は気にした様子もなかった。
「だから、取りにきてやっただろ?」
手早くシャワーを浴びた克哉は、御堂の宿泊するホテルに移動するため着替えた。
支度を済ませて振り向くと、御堂が机の上に置いたままにしてあったパスポートと辞表を手に取っていた。
「あ、あー、それは、その。追いかけて行こうと思って」
つい数時間前まで、悲壮感漂わせながらそれらを見ていたことが嘘のようだ。
だが克哉は気づいた。
御堂は会いに来てくれたが、また戻ってしまう。
結局離れ離れではないのか。
「思っていることが顔に出てるぞ」
「わ!」
指で額を押され、克哉はよろめいた。
「手間が省けて結構だ。
辞表は週明けに出せ。航空券は私が手配する」
それは、ついていってもいいということなのだろうか。
「部屋は空いているし、必要なものは私が揃えるから、君は身一つで来ればいい」
ついてこいと言っている。
御堂が、自分に。
「また顔に出ているぞ」
今度は顎を掴まれた。
にやけているのは自分でもわかった。
「嬉しいんです。いけませんか?」
「いいや」
キスをして抱き合って、ベッドに逆戻りしそうになって、ふたりとも踏みとどまった。
実際そんなはずはないのだが、一年付き合った全部より、この時間で交わした言葉のほうが多い気がした。
「御堂さん、好きです」
肩に頬を乗せて、腕を背中にまわす。
返事の代わりに克哉の背中にまわされた腕に、痛いほどの力が込められる。
「ちゃんと言ってください。言葉で」
「なにを」
「あなたがオレを、どう思ってるのか」
離れようとするので、克哉は離さない。
「やっぱり後悔してるんですか」
「していないと言っただろう」
「だって今だから言いますけど、御堂さん、会社変わってしばらく大変でしたよね」
「今はうまくいっている」
「でもほんとは、いらない苦労をしたと思ってますよね」
この機会を逃せないが、それでも顔を見て言えるほどの覚悟はないので、耳に頬をあてるようにして克哉はまくしたてた。
「…どうらやら気にしているのは君のほうのようだな」
御堂が大きく息を吐き、それから勢いよく克哉を自分から引き剥がした。
突き飛ばされるのかと怯えた克哉の両腕を掴んで、前を向かせる。
「では聞くが。君は私を恨んでいないのか」
「なんでオレがあなたを恨むんですか?」
信じられないものを見る目で見られて、克哉は少し考えなければならなかった。
「ああ…あのこと」
「接待」のことかとようやく思い至った。
そういえば一年前にミスターRにも聞かれた。
どちらかというとあの短い期間にされたことより、そのあとから今日までの、はっきりしない日々のほうが恨めしい。
だがそれは自分のせいでもあるので、責めるつもりはない。
恨んでません、と言おうとして開いた口を掌で塞がれ、克哉は目をぱちくりさせた。
御堂は真剣な顔で話し出した。
「私はこれまでの人生において、後悔などしたことは一度もない。
本当の気持ちに気づかず、わけのわからない行動を取った、そのことについても正直なところ後悔はしていない。
自分を見失いかけたことを、反省はしているがな。
それから、君の言った いらない苦労 についてだが。
挫折は私に足りなかった唯一の経験だ。
この時期に知ることができてよかったと思っている」
今度は克哉が信じられないものを見る番だった。
御堂が心からそう思っているのだとわかったが、こんな傲慢な男、ほかに知らないし、滅多にいないだろう。
そんな男がこんなに愛おしいなんて、自分もほんとにたいがいだ。
「…さい」
口を塞がれたまま言う。
掌を唇でくすぐられ、御堂は手を離した。
「ついでに言ってください。
御堂さんはオレのことどう思ってるんですか」
御堂が嫌そうな顔をした。
「なんのついでだ」
「いっぱい話してくれているついで」
どうしたものか、と考えているのがわかり、克哉は最後通牒を放った。
「言ってくれないと、オレ、ニューヨークに行きません」
「……!」
折れそうなくらい腕を掴まれても、克哉は譲らなかった。
どうしても言ってもらいたい。
ここでひいては、これまでと同じだ。
克哉は手を振り払い、逆に御堂の手を掴んだ。
「御堂さん、好きです。あなただけを愛してます」
勢いかうわごとでは言ったことはあるし、さっきも言ったが、冷静な状態では初めての告白だ。
恥ずかしさで声が上擦る。
聞いている御堂も恥ずかしそうだった。
「…私も愛している」
言葉と共に唇がおりてきて、克哉は目を閉じた。
やっと手に入れた。
二度と離さない。
戻ル