アイツの煙草  

引越しにあたって、御堂は初めて克哉の部屋に入った。
送り迎えにアパートの前まで来ることはあったし、克哉が支度するあいだドアのなかで待つこともあったが、 なかに上がったことはこれまで一度もなかった。
玄関に立てば、室内すべてが見渡せるワンルームだ。
わざわざ靴を脱がなくとも克哉の生活は垣間見れたし、なによりふたりになれば言葉を交わすのももどかしく抱き合ってしまうのに、 聞き耳を立てなくても隣人の話し声が聞こえるような壁の薄い部屋に入るのは危険だ。
御堂はほかの人間にあの時の克哉の声を聞かせせる気はなかったし、克哉も他人にそんな声を聞かれたら、恥ずかしさのあまり死んでしまうと思っていた。
そういうわけで、これまでは避けてきた克哉の部屋を、御堂は興味深げに眺めた。
既に克哉がほとんど荷造りをすませているので、日常の風景ではなかったが、やはり玄関から見るのとは少し違う。
「個人的なものを整理したら、あとは業者に頼め。引越しのために休みを取らせる暇はないからな」
「はい」
ベッドや布団など持っていかないもののうち大型のものは、平日粗大ゴミに出さなければならない。
逆に持っていくものはダンボール数箱におさまってしまったので、宅配で送ることになっている。
「ここにあるものは全部捨てるのか?」
ひとまとめにされたいくつかの袋を示す。
「あ、そうですけど。御堂さん、先に行っててください。オレ、片付けたら行きますから」
「ふたりでやったほうが早く終わる」
「そうですけど。悪いです。御堂さんにそんなことしてもらうの」
床の雑巾がけをしていた克哉は、ためらうように御堂を見上げた。
そういうつもりはないのだろうと頭では理解しているが、弱々しげに笑う顔が誘っているように見える。
御堂は膝をついて、克哉の顎を掴むと唇を重ねた。
「…あっ、んっ、ふっ」
甘い声が漏れ、床に押し付けるように雑巾を握り締めていた腕から力が抜ける。
バランスを崩すのを防ごうと雑巾から手が離れ、御堂の肩を掴んだ。
御堂があえて支えずにいると、両腕を首のうしろにまわしてしがみついてきた。
「み、どう、さん」
「最後にここでしていくか?」
焦点の合わない目で、克哉がなにか言おうと唇を動かす。
天気のいい日曜日の午後。
エアコンをきかせているので、窓は締め切っている。
単身者の多いアパートに人はほとんどいない。
「えと、あの。それでもだめ、です…」
「本当に?」
御堂が誘って、克哉が嫌なはずがない。
キスの余韻だけではなく、顔を赤くしながら視線を反らそうとするのをそのままに、ゆっくりと上半身を床に倒した。
「御堂さん」
「ベッドは使えるままにしておけばよかったな。まあ、床の上というのも一興だ」
「…オレ、ここに住めなくなります」
「戻ることはないから、かまわないだろう」
克哉はようやく視線を御堂に定めた。
「…はい、御堂さん」

克哉がシャワーを浴びているあいだ、御堂は空気の入れ替えのために窓を開けた。
暦の上では夏は終わっているが、真夏日は続いている。
熱気を孕んだ空気は快適な換気の役割を果たさず、ほどなく窓を閉めようとして、窓際にあった束ねられた雑誌に気づいた。
その上に、灰皿と煙草が乗せられている。
克哉は煙草を吸わないし、以前吸っていたとも聞いていない。
誰か煙草を吸う人物が、克哉の部屋を訪れていたということになるが、一番親しい友人であるはずの本多も吸わないはずだ。
ではそれ以外の誰か…?
灰皿まで用意してやって…?
回転の早すぎる頭で、一気に自分にとって不快な想像をした御堂は顔を顰めた。
「これはなんだ」
バスルームから出てきた克哉は、いきなり不機嫌になっている御堂に驚いた顔をしたが、突き出された灰皿と煙草に、ああ、と頷いた。
「眼鏡をかけた"俺"の持ち物です。
ほかにも服とかあったんですけど、そういうのは眼鏡を返したときに処分したんです。
これは小さいし、置いといてもいいかなって。
ほら、珍しいでしょう? 外国製でどこで売ってるのかわからないんですよ」
示された煙草のパッケージは、確かに見かけないものだ。
「自分で買っておいて、どこで売っているかわからないのか」
「眼鏡かけてたときの記憶は曖昧で」
困ったような顔に、そういえば以前そういう話を克哉から聞いたことを、御堂は思い出した。
「自己暗示ではなかったのか」
克哉が言う眼鏡をかけたときの万能感など、暗示の最たるもののように御堂には思えたが、克哉は少し思案してから首を横に振った。
「オレ、子供のとき、ああいう感じに近かったんです」
「子供のとき?」
「小学校を出るまでくらい、です。たぶん。よく覚えてないんですけど。
勉強でも運動でも嘘みたいに楽々出来て。
みんながそれをすごいって言うのが逆に不思議なくらい」
「それがどうして俯く君になったんだ」
「よくわからないんですけど、気づいたら…。
でもだから、眼鏡をかけてるときは、子供のときの自分がそのまま大人になった、 もうひとりの俺が動いてる、ってそんな感じでした」
夢のなかの出来事を語っているかのように、どこか遠い目をして克哉は語った。
そういうこともあるかもしれないと、今なら御堂も思う。
克哉は不自然に自分を抑え込んでいたから、歪みが出ても不思議はない。
なにかをきっかけに。それが眼鏡ということなのだろうか。
「だがせっかく強気な自分を取り戻せるアイテムを、君はあまり使っていなかったな」
営業に出ているときは、かけていることもあったようだが、 御堂の覚えている限り、克哉が眼鏡をかけていたのは最初に会ったとき一回きりだ。
克哉は決まり悪そうに御堂を見た。
「それは、その、あれ以上御堂さんを怒らせたくなかったですし」
あれ以上、の意味を悟って、御堂は咳払いした。
確かに克哉の初対面の印象は最悪で、しかも二回目以降別人のようにおとなしくなっていたのが、さらに苛立ちを煽って、あの頃御堂は怒っていた。
尤もあれが正しく怒りという感情だったのかはわからない。
激しい感情の揺さぶりは知らないあいだに恋情に変化し、ずぶ濡れの克哉からの告白を受けて、ようやく御堂にそれを認めさせた。
胸に込み上げてくるものが、愛だと御堂はもう知っている。
いつの間にか克哉は、信頼を込めた笑みを浮かべていた。
「それに御堂さんが、眼鏡をかけてないときのオレを認めてくれたから。
オレは眼鏡がなくても大丈夫なんだって、そう思えたんです」
抱きしめると、克哉は嬉しそうに石鹸の匂いがするからだを預けてきた。
「不思議です。御堂さんとこうしていることが」
「そうならないほうがよかったか?」
克哉は御堂の腕の下で頭を横に振った。
「眼鏡をかけた俺が御堂さんを怒らせてなければ、オレは今御堂さんと一緒にいないんですよね」
どうだろうか、と御堂は思う。
プロトファイバーの営業権をあのとき取りに来なければ、克哉を知ることはなかった。
だが知り合いさえすれば、自分は克哉を意識していたと思う。
その流れでは、克哉が自分を好きになるかどうかはわからない、というよりおそらくならないだろうが。
「不思議なのは私のほうだな」
「御堂さんは、オレとこうしてないほうがよかったですか?」
拗ねたようでもあり不安そうでもある口調に、御堂は笑う。
どうしてわからないのだろう。選択権はいつも克哉の手のなかにあるということが。
「あんまり可愛いと、もっと束縛するぞ」
「…いいですよ?」
控えめだが、まっすぐ目を見て克哉は言った。

部屋を出るとき、克哉は煙草と灰皿をゴミ袋のなかに入れた。
「いいのか?」
「はい」
煙草を持っていた手を、克哉は御堂の手に絡めた。



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