佐伯克哉の一番長い日 副社長辞任(上)
12月の米国出張で御堂が注文していた克哉のスーツは、1月の終わりに届いた。
新しいスーツに袖を通すときには御堂に着せてもらうのが習いで、ネクタイまで締めてもらってから克哉ははにかんだ。
御堂にとってどうなのかは知らないが、克哉にとってこれは幸運のジンクスだ。
シャツの袖口に黒蝶貝のカフスボタンが飾られているのなら尚更。
「もう少し早ければ、年始周りに使えたんだがな」
「そうですね。オレにはまだ過ぎたスーツですから、普段着るのは勿体無いです」
「すぐに中身が服に追いつく」
普通の顔でそんなことを言われて、克哉の顔はゆっくり赤くなる。
「が、がんばります」
「今の調子で充分だ」
う、嬉しい…かも。
目一杯赤くなりながら、克哉は幸せを噛み締めた。
「ともあれ、ようやく業務だけに集中できるようになったのは、正直ありがたいな」
「ああ、はい…年始周り、大変でしたね」
キクチにいた去年も仕事始め早々何社にも赴いて挨拶周りをしたが、今年の凄さの比ではなかった。
可能な限りすべて御堂に同行し、御堂がさらにその上の役職にあるものに同行する場合も呼ばれることがあった。
従って初対面の相応の立場にある相手に挨拶することが多く、要するに物凄く気を使った、ということだ。
そうして出社した日。
やっておきたい仕事があり、今日はそれが終わるまで残業しようと思っていたのだが、午後一番にかかってきた内線電話によって、予定は変更させられた。
通常秘書を通してくるはずの電話は、直通だった。
指定されたのはカウンターしかない小さなバーで、時間が早いせいなのかほとんど人がおらず、貸切のようだった。
副社長はボトルでロックを飲んでいたが、克哉のためになにか作るようにバーテンダーに頼む。
「彼、カクテル好きだから、甘くなくて面白いのを作ってあげて」
克哉は副社長とふたりで会うのは初めてだし、まともに話をしたこともない。
酒の好みは御堂から聞いたのだろうか。
副社長は派閥を持たず、御堂は大隈専務派だ。
だが共に異例の若さで責任ある立場に立った者同士、親しくしているらしい。
「実は今度MGNを辞めることになってね」
プロのバーテンダーのシェーカーさばきにうっかり見惚れていた克哉は、突然の副社長の本題に耳を疑った。
「え…?」
「次の取締役会で承認される」
「え、えーと、どちらかへ移られるんですか。それとも起業を?」
「いずれは起業することになるんだろうけど。
ぼくにとっても予定外の出来事でね。
要するに組織から弾き飛ばされた」
いきなりな展開に、克哉は目を丸くするしかない。
「あ、あの、そのことは御堂部長は」
「まだ知らない。御堂君だけじゃなく、君意外誰も知らない。今日決めたからね」
「どうしてそんな大事なことを、オ…私に」
副社長はこれまた唐突に、社内報などで見るとびきりの営業スマイルを浮かべた。
「佐伯君。私についてこないかい?」
「は?」
素っ頓狂な声が狭い店内に響いた。
間の抜けた空気が流れ、副社長は吹き出し、それからロックを一口飲んだ。
「克哉君、もっと腹芸を覚えなくちゃね」
「は、はあ…あの、すみません。オレ、まだ高度な冗談についていけなくて」
「冗談ではないんだがね」
副社長は口の片端だけ上げた。
「その反応で返事はわかったよ。
少しでも迷ってくれたらもう少し口説くんだが、生憎無駄なことに割く時間が勿体無い」
カウンターに置かれていた副社長の携帯電話が着信を知らせて光った。
席を外して電話に出たあと戻ってきた副社長は、次の予定が早まったので自分はこれで行くが、よければ君はゆっくりしていけばいい、と言った。
とはいえそんなわけにもいかないので、克哉は副社長と一緒にバーを出た。
「御堂君によろしく」
克哉は黙って頭を下げ、副社長と別れた。
思ったより帰宅が早かったので、克哉がマンションに戻ったとき、御堂はまだ帰ってきていなかった。
今日副社長に会うことは、口止めされていたのでまだ言っていない。
告げるべきなのか、リビングの明かりをつけた克哉はしばし逡巡した。
疚しいことなどないので隠す必用はないのだが、副社長は会社を辞めることを克哉にだけ教えたと言った。
次の取締役会は確か数日後だが、それまでにこの情報を知ることが、御堂にとって良いことだろうか。
副社長は一匹狼だ。
ゆえにうまく立ち回っているときには敵味方なく振る舞えるが、悪く回ればすべてが敵になる。
その副社長が会社を辞める。
口ぶりでは意に沿う形ではないようで、そのことを事前に御堂が知っていたとなると、御堂の立場は微妙にならないだろうか。
コートも脱がずにソファに座り込み、克哉は考え込んだ。
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