幸せの三段重ね
同じ仕事をしているとはいっても、立場が違えば責任も違う。
その日の午後から発生したトラブルは終業時間には一応の決着を見たが、責任者である御堂は海外の現地法人からの連絡待ちとなった。
「電話があれば終わりだから、君はもう帰りたまえ」
克哉はその一言で帰されてしまった。
仕事があろうとなかろうと、克哉としては御堂と一緒にいたいだけなのだが、御堂は御堂で、ここのところ帰宅が深夜になる日が続いている克哉を、休ませてやりたいと思っていた。
「ひとりで部屋にいたって、することないんだけどな…」
元々無趣味な上に、MGNに移ってからは仕事三昧、休日はなにをするのも御堂にくっついてるので、あえて言うなら趣味「恋人」状態の克哉だ。
とぼとぼと歩いて、夕食でも買おうかとデパートの地下に入った。
御堂に食べさせる、とか、御堂の健康管理、となると俄然血がたぎる克哉だったが、自分のこととなるとまったく関心がない。
適当に弁当でも、と眺めているうち、春らしい彩の行楽弁当が結構あるのに気がついた。
そういえば花見の季節だ。
キクチでは部署ごとに花見に行ったりしたが、MGNではそういう慣例はない。
克哉は桜があまり好きではないこともあって、今がそういう季節であることを忘れていた。
御堂さんも人込みは好きじゃないから、花見は行かないだろうけど。
結構な値札のついている花見弁当の中身を見て、克哉は考える。
これくらいなら、オレでも作れるよな…
よしっ、と決断した克哉は、惣菜売り場から生鮮品売り場へ向かうべく身を翻した。
午後八時三十分。
風呂敷に包んだ大きな荷物を手にした克哉は、MGNジャパン本社ビルの通用門前にいた。
IDカードを通して、当直の警備員に挨拶する。
「あれ、佐伯さん。どうされたんですか?」
残業も早朝出勤も多い克哉は、警備員とも顔見知りだ。ジャケットは着ているが、ノーネクタイでカジュアルダウンした服装に首を傾げられる。
「オレの仕事は終わったんだけど、ちょっと差し入れに」
「そうなんですね。そういえば先程本多さんがいらしてましたよ」
「本多?」
今日のトラブルの大元には、営業を担当していたキクチが絡んでいた。
だがそれは三課の担当で直接本多には関係ないはずだが、フォローのために引っ張り出されたのかもしれない。
今のキクチで、一室と一番強いパイプを持っていると思われているのは本多だ。
それはある意味真実で、ある意味誤解なのだが…
エレベータでフロアに上がると、案の定怒声が響き渡っていた。
「だから、それは悪かったって何度も謝ってるだろう! ったく、すんだことをねちねちと! 担当者も充分反省してるんだ! いくら言ったって、終わったことはやり直せないんだよ!」
「その態度のどこが謝っているというんだ! そもそもどこに問題点があるのか理解せずに、口先だけで反省を述べたところでなんの解決にもならないとなぜわからない!
これだからレベルの低い輩は…!」
「ああ!? どんなに頭がいいか知らないけどな、あんたはいつも一言多いんだよ!」
御堂の執務室以外、既にあかりは落ちていて人気はない。あったとしてもこれでは怖くなって帰ってしまっただろう。
冷静沈着、理論で相手をやり込められる御堂が声を荒げるなんて滅多にない。
というか、相手は本多しかいない。
親会社の部長と子会社の平社員がこれだけやりあったら、普通は一度で大問題になるが、このふたりに関しては一向大ごとにならない。
御堂さんは色々ストレス抱えてるし、たまに大声出して発散するのも大切だよな。本多、ありがとう。
などと、本多が聞いたら絶句しそうなことを思いつつ、克哉はドアをノックして、それから顔を出した。
「…佐伯君?」
「克哉?」
「ふたりとも、そんなに怒ったらおなかが空きませんか?」
精一杯にっこり笑って、克哉はふたりのあいだを割るように歩いて、ソファの前のサイドテーブルに風呂敷包みを置いた。
「帰れと言っただろう」
「帰りましたよ、ちゃんと。また来ただけです。電話、ありました?」
「…まだだ」
「じゃあ、ご飯でも食べて、ゆっくり待ちましょうよ」
克哉は御堂の手を引いて、ソファに座らせた。
「本多も食べる? 大目に持ってきたから大丈夫だよ」
言いながら包みを開けると、中から塗りの立派な重箱が出てきた。
前に御堂と一泊旅行をしたときに、地元の特産品を克哉が気に入り、日々の家計で浮かせた小金を貯めている御堂名義の口座、
通称「孝典さん口座」と克哉がひとりで名づけたところから用立てて買ったものだ。
克哉がちまちまとそんな金を貯めていることを、御堂はそのとき初めて知った。
一の重、二の重、三の重、と広げていく弁当に、本多は目を丸くした。
「克哉…これ、おまえが作ったのか?」
「そうだよ。あ、水筒はそこにあるから」
御堂さんはこれ食べてみてください、と割り箸をぱちんと割った克哉は、小さめの俵型のコロッケをつまんで口元に運んだ。
いつの間にか場の空気が克哉に支配されていて、御堂は口を開けてしまう。
「どうです? 結構うまく出来たと思うんですけど。クリームコロッケ」
「ああ、美味い…」
「ほんとですか? このあいだ教室で作ったホワイトソースを冷凍してあって、それを使ったんです。よかった。御堂さんの口にあって」
「教室?」
本多が聞き返す。
「うん、料理教室。月一回通ってるんだ」
「…まじかよ」
かねがね自分流では限界があると克哉が思っていたところに、御堂とよく行く小料理屋の既に他家に嫁いでいる娘が、
マンションの一室で料理を教えている、と聞いて紹介してもらったのだ。
テーブルコーディネートを含めて、和洋中その他を習っている。
クリームコロッケ、鰤の照り焼き、出し巻き卵、筍の木の芽和え、ほうれん草の胡麻汚し、その他いろいろに、本多がため息を漏らす。
感心している、というより、呆れている、というような。
ソファに座った本多に、御堂が小声で言う。
「言っておくが、仕事に忙しい克哉に、私が無理矢理家事までさせているのではないぞ」
「…わかってる」
はい、御堂さんどうぞ、と克哉は水筒のお茶を入れたコップを差し出した。
それから重箱の蓋に料理を適当に取り分けて、箸を添えて御堂に渡す。
「君は食べないのか?」
「箸がないんです。ふたつしか持ってこなかったから。作るときちょっとつまんでるから、かまいません」
「またそんなことを。君は私にはうるさく言うくせに、自分は出鱈目だな」
出し巻き卵を差し出されて、克哉はぱくりと箸に食いついた。
「御堂さんも食べてください」
「ああ、いただく」
本多が箸も割らずにいるのに気づいて、克哉は声をかける。
「本多、腹減ってない?」
「いや…減ってるけどよ。なんかこう、おまえら、もうちょっと俺に気を使えよ」
「え?」
意味がわからず克哉はきょとんとするが、御堂は意地悪く笑った。
「この場合、遠慮するのは君のほうだろう? 本多君」
「克哉が帰れっつーなら帰るが、てめえに言われては絶対帰らん」
ばしっと箸を割ると、本多はがしがしと克哉の手料理を食べ始めた。
「本多、ほんとにちゃんと美味い?」
御堂以外に感想を聞いたことがないので、克哉には一抹不安がある。
御堂は自分を傷つけまいとして、口に合わないのに食べていてくれているのかもしれない。
本多は複雑そうな顔をした。
「…半端なく美味いよ。克哉、おまえ、レストランでも開くつもりか?」
「まさか。そんなんじゃないよ。オレがなりたいのは」
笑いながら言いかけた克哉だが、瞬間腰を引っ張られたので見上げると御堂と目が合った。
克哉が本多と話していたからか、機嫌を損ねている表情で強く睨まれる。
克哉はなんだか嬉しくなった。
「えーと、オレがなりたいのはですね」
問うたのは本多なのに、克哉は口に手をあてて御堂の耳元に顔を寄せた。
孝典さんにふさわしいパートナーです。
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