恋のパワーバランス
地下鉄は座席は埋まっているが混んでいるというほどではなく、克哉はドアの近くに立っていた。
視線を感じて顔を上げると、少し離れて立つ人と目が合った。
三十代後半の会社勤めではないと思われる雰囲気の、清潔感のある男性だ。
にこりと微笑まれて克哉は反射的に頭を下げたが、知らない相手だ。
派手ではないが印象的で、会ったことがあれば覚えている。
途惑っていると、男は近づいてきた。
そして呼びかけられた。
「克哉君?」
「えっ、と、あの」
まばたきを繰り返す克哉に、男は笑いかけた。
「ああ、ごめん。驚かせた」
カーブで地下鉄が揺れる。
「ぼくはそれを、作った人です」
それ、のところで男は資料の入った封筒を持つ、克哉の左手の指輪を示した。
次の駅で克哉と男は地下鉄を降りた。
聞き耳を立てられる車内では話がしづらく、昼食を取っていなかった克哉は少しなら帰社が遅れても問題なかったし、
工房を開いているという男は時間に制限がないようだった。
「自分が作ったものを日常つけてくれているところを見る、なんて滅多にないものだから、じろじろ見てしまった。失礼したね」
改札近くのカフェでコーヒーを注文して、立ちながら飲む。
「でもよかった。ちゃんと合ったものを作れたみたいだ」
カウンターに置いた左手に視線を注がれて克哉は恥ずかしくなったが、作った人を前に隠すのも憚られた。
「御堂さんの、お知り合いなんですよね」
「そう。エンゲージリングを作ってくれ、って来たときには吃驚した。まさか孝典が結婚するとは」
丁寧に年齢を重ねた笑みが、克哉に向けられる。
「いえ、あの。結婚じゃないですけど」
「頭が良すぎて、相手がなにを考えてるのか先に読めてしまう。だから自分以外は馬鹿に見える。
そんな男が一緒に暮らせる相手とめぐり合って、これを逃したら馬鹿は誰だって話だ」
柔和な割には言うことが厳しい。だが御堂に対して親しみを持った物言いだ。
「よくご存知なんですね」
「家庭教師だったから」
「御堂さんのですか?」
「中学のときね」
そんなに長い付き合いだとは思わなかった。
「デザインのインスピレーションのために君に会わせてほしいって頼んだが、勿体無いから会わせないって言われてね」
「はあ」
「仕方ないからイメージだけ教えて貰った。さっき電車のなかで、指輪に気づくより先に君の印象で目が留まった。
孝典の恋人もこんな人なのかな、と思ったら左手にぼくが作った指輪をしてた」
克哉は今度こそ左手をうしろに隠した。
自分のいないところで、御堂が自分について話しているなんて、想像しただけで恥ずかしい。
「あの、御堂さんはオレのこと、なんて…?」
「理解不能」
「……」
「それから」
「それから?」
少しだけ考える素振りをした男は、ゆっくりと頭を横に振った。
「それは本人に聞くといい」
帰りの車のなかで貰った名刺を見せると、御堂は呆れた顔をした。
「会ったのか…顔も知らないのによくもまあ。君は人を呼ぶ体質だな」
違うと思う、と思ったが、どうでもいいことに反論はしない。
「御堂さんの家庭教師だったって…」
「ああ」
一旦そこで途切れたが、さすがに説明が足りないと気づいたのだろう。言葉が足される。
「彼は母の一番下の弟と高校の同窓で付き合っていて、そういう名目で家に出入りして会っていたんだ。
美大生だったから、数学など私のほうが出来たくらいで、学業を教えてもらった記憶はない」
母の一番下の弟ということは、叔父ということになるが、昼間会った男と同い年ということは、随分若い。
そこにこだわるべきなのか、叔父さんが男と付き合っていた、というところにこだわるべきなのか迷った挙句、
克哉は両方に目をつむることにした。
「今でも付き合ってられるんですか、おふたりは」
「もうだいぶ前だが、叔父が結婚することになって、そのとき大揉めして別れた」
克哉は思わず息を詰めた。
ハンドルを握る御堂は、そんな克哉に気づいているのかいないのか、前を見たまま続けた。
「結局半年もたずに叔父は離婚して、そこで元の鞘に納まる納まらないで周囲を巻き込んでまた揉めて、最終的に駄目だった」
車がマンションの駐車場に滑り込んで止まった。
「大丈夫か。どうして君がショックを受けてるんだ」
同性の恋人として、相手に結婚という道を選ばれるのが一番こたえるような気がする。
裏切りというより、もっと手酷い。
「私はそういうのを身近で見たから同じ轍は踏まないし、そのときの大騒動が記憶に新しい親族は、
無理矢理結婚させると碌なことにならないと骨身に染みている。むしろ君にとってはいい話だ」
「そういう言い方はちょっと…」
とはいえ、御堂の実家の事情を克哉はよく知らない。
資産家で格式もある、というのは一緒にいるとなんとなくわかるが、必要がないことを御堂は一切口にしない。
今回のようにきっかけがあれば話してくれるので、隠されているわけではないとは思う。
「御堂さん、あの。結婚についてなにかおうちから言われるんですか?」
シートベルトを外していた御堂は、苛立ったようだ。
「君はなにを聞いてたんだ。私はそういう問題で君を動揺させるつもりはないし、家のほうでも承知している」
「はあ」
「なんだその適当な返事は」
「適当じゃないですけど…オレ、御堂さんに迷惑かけてたら嫌だなって」
「だから君はなにを聞いてたんだ」
御堂は腕を伸ばして、克哉のシートベルトを解いた。
「御堂さん」
「ひとつ聞くが。私に迷惑をかけていたら、君は身を引くのか」
狭い車内で上半身を被せるように近づかれ、息が顔にかかる。
克哉は胸のなかで一度御堂の質問を繰り返して、それから答えた。
「ごめんなさい。オレのことで迷惑かけたら、ほかのことで御堂さんの役に立てるよう頑張ります」
口元を注意深く引き締めながら、御堂は眉をひそめた。
「身を引いたりされるほうがよっぽど迷惑だ」
音を立てて唇を吸われたあと御堂が車を降りたので、克哉も慌ててドアを開けた。
それからしばらく経った週末に、克哉は御堂に連れられて男の工房に行った。
古いビルの一階で、一部が店舗になっている。
窓際に置いてあるアクセサリーはカジュアルで手頃な価格だが、
オーダーメイドは材質やデザインにより応相談、と隅に置かれたリーフレットに書いてあった。
これ、いくらしたんだろう。
克哉は改めて自分の左手を見た。
指輪の価値などわからないので、御堂がくれたというだけで大切にしていたが、
ひょっとして克哉が思っていたよりずっと高価なものなのかもしれない。
「勿体無いから見せてくれないんじゃなかったか」
白いシャツにジーンズ、前掛けを着けた男が奥から現れる。
「知らないあいだに誘い出されても困りますからね」
御堂が克哉の腰を引き寄せると、男は笑った。
「取らないよ、と言いたいところだが。克哉君には隙があるからそのくらい気をつけたほうがいい」
常日頃自覚が足りないと注意されている克哉だが、他人からそんなことを言われたのは初めてだ。
そらみろ、とばかりに御堂に睨まれて、目を泳がせてしまう。
「で、これなんだがね」
鍵のついた戸棚から箱を取り出すと、男は御堂に見せた。
「ああ、いいものですね」
「だろう。先月買い付けに行ったとき、見つけた。
孝典にはシンプルすぎると思ったんだが、克哉君にはぴったりだ」
「え?」
なんの話、と思う間もなく、克哉は男に左腕を引っ張られて、手首に時計を巻かれた。
「うん、いい感じだ」
「いくらですか」
「この時計にはコレクターがいるからね。欲しいというヤツにはふっかけてやろうと思ってたんだが」
電卓に表示された数字に、克哉は腰を抜かしそうになったが、男はすぐ打ち直した。
「孝典だからこれでいい」
いきなり三分の一だが、克哉の感覚では充分高い。
「み、みみ、御堂さんっ! いいですっ、オレ、時計ならもういくつもありますからっ!」
「君は黙っていろ」
言いながら、御堂は電卓の数字を打ち変える。
「うーん。ま、いいか。商談成立。克哉君、つけて帰るといい。今までしてたほう、包んでおくから」
勝手に話がまとまり、御堂はカードを男に渡した。
御堂が克哉の持ち物を勝手に買うのはいつものことだが、
この時計はアンティークなのではないかと、知識のまったくない克哉でも感じた。
「オレ、価値わからないのに、勿体無いです」
「似合っているから気にするな」
全然理屈が通っていないが、御堂が買う気になっているときに、四の五の言えば喧嘩になる。
携帯にかかってきた電話に出るために、御堂が工房の外に出た隙に、克哉はそっとため息をついた。
そんな克哉を見て、男は笑った。
「…おかしいですか」
「ああ。君が思ってるような意味でおかしいんじゃないけど。
普通高価なプレゼントを貰うと、口では遠慮していても、やった!って感じがどこからかするものなんだが。
君は心底困ってるふうだから」
「御堂さんにはもういっぱい買ってもらってますから」
「男でよかったな、克哉君。男に買ってあげられるものなんて、限られているからね」
そんなことを言われても、克哉はますます困り顔になるだけだ。
だが想像してみると、確かにそうかもしれない。
もし克哉が女性だったら、服に靴にバッグにアクセサリーにと、その気になれば買い与えるものは無限にありそうだ。
…ちょっと恐ろしいかも。
御堂の歯止めのかからない性格を考えると、本当に、克哉は男でよかったかもしれない。
「でも実際よく似合っている。指輪と釣り合いもいいし」
この人はなかなか商売がうまいな、と苦笑する克哉の手を取り、ほら、と男は陽光の差し込む窓のほうに掲げさせた。
飾り気はないが無駄のないフェイスと赤みの勝った茶色のベルトの時計と指輪は、確かに違和感がない。
日を受けて指輪は柔らかく輝いた。
「昼は淑女」
掴まれたままの手は、今度は光の届かない室内を照らす、薄暗い照明の下に引っ張られた。
指輪はさっきより艶やかに、鈍く光る。
「夜は娼婦」
克哉は一回まばたきしてから「は?」と間の抜けた声を出した。
「あれ。孝典から聞かなかったか。指輪のイメージ」
そういえば、御堂は克哉のイメージを伝えて、この指輪を作ってもらったのだった。
具体的にどういうふうに言ったのか、御堂に尋ねようと思ったまま忘れていた。
ひるはしゅくじょ よるはしょうふ
じわじわと意味が頭に浸透してくるに従って、克哉の顔は赤く染まっていく。
「…てっきりもう聞いていると思ってた」
この男は地下鉄で克哉を見て、御堂の恋人はこんなふうなのかな、と思った。
克哉のことを何も知らないのに、指輪を作ったときのイメージで。
そう思うと克哉はさらに一段赤くなった。
電話を終えて戻ってきた御堂はそんな克哉を見て問い質し、理由を知るとなぜか機嫌が良くなった。
御堂さんだって、昼間は潔癖そうな顔をして、夜は全然違うくせにっ。
とは口が裂けても言えないのは、惚れた弱味か力関係の表れか。
恥ずかしさのあまり涙目になりながら、せめてもの思いを込めて精一杯御堂を睨んだが、
まったく効果がないばかりか益々上機嫌にさせる結果に終わった。
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