デート
やや緊張した面持ちの克哉は、金曜日の夜のコンサートホールロビーにいた。
取引先の重役からその会社が協賛している今日のチケットを貰ったのだが、オペラ鑑賞など初めてで、
品よく着飾った淑女とエスコートする紳士のなかに混じっている自分が、どうにも場違いな気がして落ち着かない。
「随分といい席を用意してくれたものだな」
座席を確認した御堂が呟いた。
なにもわからない克哉は素直に受け取ってしまったのだが、あとから御堂にチケットの値段を聞いて驚いた。
しかもいわゆるプラチナチケットで、金を出せば手に入る、というものではないらしい。
「お付き合いしている方とご一緒に」
と二枚渡され、克哉はその場で
「いえ、あの、御堂部長と」
と言ってしまった。
クラシックに造詣の深い上司と行ってもそう不自然ではないはずだ、と踏んだのだが、重役はごくあっさりと言った。
「ああ、そうでしたか。御堂部長でしたか。それでは楽しんできてください」
そんなことを思い出していると、ふとこれが実にクラシカルなデートな気がしてきて、克哉は赤くなった。
「克哉?」
御堂が振り向く。
「なんでもないですっ」
「佐伯君」ではなく「克哉」になっている。
やっぱり御堂もこれをデートだと思っているだろうか。
そういえば、このあと少し遅くなるが食事に行こうと言っていた。
人の目がなければ腕に触れたいところだが、皮肉なことに人の目があるからデートだと思える。
「なにか飲んでから席に行くか?」
「でももう時間がそんなに」
そうだな、と言いかけた御堂が途中で言葉を切った。
混みあうロビーで、御堂は克哉の向こうを見ていたが、はっと我に返ると慌てて目を逸らした。
「御堂さん?」
らしくない態度に、つい今まで彼が見ていた方向に首を巡らせた。
あ。と思ったのは、そこに美女がいたからだ。
妖艶な、と形容するのがふさわしいのだろうか。
黒のドレスは特に派手ではないのに、その女(ひと)の周りだけ空気の色が違う。
引き込まれるように見入ってしまった克哉の手首を、御堂が掴んだ。
「行くぞ」
「え、あ?」
強い力で腕を引かれて克哉は面食らったが、女が声をかけてきたのはそのときだった。
「孝典さん」
姿形だけでなく、声まで美しい。
克哉の手首を掴む御堂の手に、痛みで顔が歪むほどの力が入った。
「孝典さん。逃げなくてもいいでしょう?」
女は御堂に話かけていた。
御堂は一瞬うつむいて、それから意を決したように顔を上げた。
「別に逃げてなどいませんよ。連れがいるようなので気を使っただけです」
女が先程までいたところには、克哉と同じくらいの年頃の男がいた。
「わたくしはあなたの連れている方が気になりますけど」
克哉に嫣然とした微笑みが向けられる。
「はじめまして。克哉さん」
「え…? なんで、オレの名前」
正面から向き合うと、女は本当に美しく、そして迫力があった。
誰かに似ている。
そう思い、自分の腕を掴んでいる男を見た。
…似てる。
女は口の片端を上げる、御堂と同じ笑い方をした。
「はじめまして、克哉さん。写真よりずっと素敵ね。孝典がいつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそお世話に…って、え?」
「…母だ」
御堂がこれまた彼らしくなく、目を逸らしながら言った。
「え、えええっ!?」
場所をわきまえず大声を出してしまい、克哉は慌てて自分の口を押さえた。
「写真ってなんですか?」
気を取り直したのか、憮然とした様子で御堂が母親に訊ねた。
「あなたたち、春に別荘に行って、おじいさまと会ったでしょう」
「写真など撮ってませんが」
「あ、あのう。オレ、一緒に写真撮りました。おじいさんの携帯で」
克哉は自己申告した。
「なんだって!? いつの間に!?」
「えと、御堂さんには内緒でっておっしゃられたので…」
こっそり、並んで写真を撮った。
「待ち受け画面になっていたわ」
「…油断も隙もない」
開演十五分前のベルが響く。
「ねえ、孝典さん。わたくしのチケットとあなたのチケットを交換しましょう。
そうしたらわたくし、上演中ずっと克哉さんと一緒にいられるし。
わたくしの連れている人も、まあまあよ」
「あなたが遊びで連れまわしてる若い男と、克哉を一緒にしないでください」
「孝典さんのパートナーは、わたくしにとっても大切な人でしょう」
ねえ、と話を振られて、克哉は困るが、
掴まれたままの手首をぐい、と引っ張られ、御堂にからだが触れて少し安心する。
「おかあさん。はっきり言えば邪魔なので、もう行ってもらえませんか」
「まあ、ひどいこと」
そう言いながらも、御堂の母親は一歩離れた。
「仕方ないわね。またあとでね」
御堂にではなく克哉に微笑みかけると、御堂の母親は行ってしまった。
初めて見たオペラは豪華で綺麗で素晴らしく、本当ならば夢見心地のはずだったが、
その前の御堂の母親との遭遇の印象が強すぎた。
舞台に集中しようとすると、歌姫よりも華やかな御堂の母親の姿が脳裏に浮かぶ。
さらに御堂がやっと離してくれた手首の代わりに、今度は手をずっと握っているのでそちらばかりが気にかかる。
人のいる場で見えないようにつないだ手を、克哉をからかうように弄ぶことはあっても、
こんなふうにひたすら強く握り締められていることは、これまでなかった。
御堂の心境はよくわからないが、嬉しいような止めてほしいような、ただひたすらに恥ずかしかった。
やがてプログラムはすべて終わり、会場が明るくなった。
人の流れに乗ってロビーに出ると、どこからともなく御堂の母親が現れた。
「送ってちょうだい。孝典さん」
「はあ?」
「孝典さんに送ってもらうからって、車は返したわ」
「連れの男に送ってもらってください」
「あの人にも帰ってもらったから。
ほら。孝典さんが送ってくれないと、わたくし帰れなくてよ。
それともわたくしにあそこに並べと?」
タクシー乗り場には長蛇の列が出来ている。
「わたくし名義のマンションがあるの。すぐ近くよ」
御堂がちらりと克哉を見たので、克哉はかまわない、というふうに曖昧に笑った。
駐車場で車に乗り込もうとして、克哉は動きを止める。
「え、と、オレ、後ろに行ったほうがいいですか?」
こういう場合、母親が息子の隣に座るものなのだろうか。
「君は私の隣だ」
「克哉さんはわたくしの隣よ」
母子の声が同時に重なり、克哉は固まった。
「…おかあさん」
「わたくしは克哉さんとお話したいの。
今出来ないなら、後日うちに来ていただいてもかまわないけれど?」
一瞬睨み合ったのち、折れたのは御堂だった。
滑るように走り出した車のなかで、後部座席の克哉にとって気まずい沈黙が流れる。
お話したい、と言ったわりに黙ったままの御堂の母親は、漂う香水の蠱惑的な香りそのものの存在のようだ。
たまりかねて克哉は口を開いた。
「あ、あの。御堂さんはおかあさん似なんですね」
「中身は父親似」
「そ、そうなんですか?」
「しつこくなくて? この人」
「え、いや、そんなことは」
母親が息子を語るにはかなり手厳しい。
「私たちのことはほっといてください」
運転席からぴしゃりと言う、御堂も母親に対して非常に冷たい。
「ほどほどになさいね、孝典さん。
あなたもあなたの父親と同じでやりすぎるんだから、何事も度を越すと痛い目に遭うわよ」
「おとうさんと喧嘩でも?」
「あなた、おとうさまが、遊びを堪能した最後は正妻に戻るのが粋だと思っている、って知っていた?」
「…いいえ」
「かまわないでいてくれるのがあの人のいいところだったのに。
船旅で世界一周しようとか誘うのよ」
「行ってきたらいいじゃないですか」
「嫌よ」
にべもない。
「孝典さんもあまりべったりすると嫌われるわよ」
克哉は思わず首を横に振っていた。
「克哉」
「はい?」
「世界旅行がしたいか?」
「え、そんな、休み取れないですよね。えと、でもそうですね、いつか」
船旅でのんびりずっと一緒にいられらたら、それは楽しいに違いない。
「…だそうです。おかあさん」
笑いを含んだ御堂の声に、つまらなさそうに母親は言い放つ。
「愛情なんて幻想よ」
「私もそう思ってましたが」
ふうん、と御堂の母親は克哉を眺めた。
「わたくしには理解不能だわ」
それは御堂が克哉を評するときに度々使う言葉だったので、克哉は思わず笑ってしまった。
「あら、なに?」
「いえ…」
見た目だけじゃなく、やっぱり中身も似ている。
言葉にしなかった克哉の気持ちが御堂には伝わったようで、わざとらしい咳払いが運転席から聞こえた。
豪華マンションの前で母親を下ろしたあと、御堂は車を自分のマンションに走らせた。
予約してあった店は時間的に無理なので、コンサートホールを出る前にキャンセルした。
「せっかくの機会だったが、君には悪いことをした」
「オレは別に。食事だったら、なにか作ります」
助手席に移った克哉は、家にある食材で作れるものを考える。
ありあわせですぐに出来て、ちょっと洒落たもの。
「ワインを開けよう。家でなら飲めるしな」
御堂が口にした銘柄に、克哉はちょっと驚いた。
「なんでもない日に、そんないいワインを」
「デートの日がなんでもないのか?」
ちょっと邪魔が入ったがな。
御堂の言葉に、克哉は顔を綻ばせた。
やっぱりこれはデートだった。
「このところ忙しくてどこにも行けてなかったから、今日くらいはと思ったんだが」
「家でも会社でも一緒だし、オレは別にどこにも行かなくてもいいんですけどね」
「そうなのか?」
「はい。でもデートも好きです」
克哉の言葉のなにが照れさせたのか、御堂は黙ってしまった。
運転する横顔を見つめた克哉は、思い切って聞いてみた。
「あの、御堂さん。御堂さんのおかあさん、オレのこと」
「写真を撮りたいと言われても、撮らせるんじゃないぞ」
「え? あ、はい」
「大体君は写真が嫌いじゃなかったのか」
「おじいさんのことですか?
そうですけど。
御堂さんのおじいさんに、次会うときまで生きていないかもしれないから是非一緒に、って言われたら断れないです」
御堂は顔を歪めた。
「…あの老人はあと二十年は必ず生きるから、今度からそういう気遣いは必要ない」
「は、はあ」
「君が嫌いだと言うから今まで遠慮してたんだ。
帰ったら、私にしか撮れない写真を撮ってやる」
「え、ええっ!? ダメですっ!」
「誰に向かって言っている?」
「まさか待ち受けにしたりしませんよね…?」
「さあな」
それは絶対阻止しなければ、と密かに決意を固めたが、克哉が最初に言わんとしていたのはそれではない。
「御堂さんのおかあさんはオレのこと、わかってらっしゃるんですよね…?」
「祖父から聞いたのなら、君が私と付き合っていることは承知しているだろう」
「…普通、でしたよね」
一人息子が男と付き合っているとわかっていて、その相手に取る態度ではなかった気がする。
「息子より若い男を連れ歩いていて、なにか言える立場でもなかろう」
それについても克哉としては、淡々としている御堂の態度も気になる。
途惑う克哉を御堂は一瞥した。
「別に仲が悪いわけじゃない。
うちは昔からこうなんだ」
信号で停車すると同時に、シフトレバーから離れた御堂の手が克哉の頭を軽く叩いた。
「その話はもう終わりだ。
今夜はせっかくのデートなんだからな」
ちょっと考えてから、克哉は頷いた。
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