罰ゲーム  

MGN本社ビル受付で待っていたのは、克哉が思っていたのとは違う人物だった。
年は三十手前くらいだろうか。清楚な、少し神経質な印象の女性だ。
ふんわりしたワンピースを着ていて、オフィスビルにいるよりホテルの喫茶室にいるほうが違和感ない。
「佐伯克哉さんですか」
「そうですが。あなたは」
どちらさまでしょうか、と訊ねようとしたその前に、思いも寄らないことが起こった。
ぱしん、という小気味いい音が、目の前の女性の掌が自分の頬を打った音だと理解するのに、克哉は数秒を要した。
長身の克哉の顔に手を届かせるには、160センチに満たないだろう身長の女は目一杯腕を伸ばさねばならず、 そのせいでたいして痛みはないが、受付周辺にいた人の目が一斉に集まった。
「この泥棒猫!」
女は叫んだ。
途惑う克哉の表情に苛立ちを募らせた様子の女は、さらに何事か言おうと口を開いた。
だが。
「……さん!」
女の名を呼びながら、吹き抜けになっている二階に通じる階段から、企画開発二室の室長が駆け下りてきた。
「なにしてるんですか、……さん!」
「私からあなたを奪った人に、一言言いにきたのよっ!」
室長の背中に庇われるような格好になっていた克哉に、女はびっと人差し指を突き出した。
「どんな素敵な人かと思えば、なによっ! こんな地味な子っ!」
  じ、地味って…
地味、目立たない、というのはかつて克哉につきまとう形容詞だったが、MGNに来てから無縁だったので、奇妙な感慨を覚えた。
二室の室長は、申し訳なさそうに克哉を見た。
「ごめん、佐伯君。君を巻き込むつもりじゃなかったんだ。彼女は少々誤解を…」
「誤解ですって!? あなたが私との結婚を断るのは、ここにいる佐伯克哉と好きあっているからだって、あなた、確かにそう言ったわよね!」
いつもはざわざわしているフロアが、女のきんきん声の余韻を引っ張るように静まり返った。
「あなたなんかこっちからお断りよ! おじさまがうるさく言うから会ってあげたのに!」
女は踵を返すと、ヒールの音を響かせてMGNジャパン本社ビルを出て行った。
克哉がそうっと目だけ動かして見ると、二室の室長は固まっていた。
ここはなにか適当なことを言ってお茶を濁さねば、自分も二室の室長もまずいのではないか。
しかしどうフォローすべきか。
克哉が大急ぎで思案していると、力強い拍手がフロア中に広がった。
先程二室の室長が下りてきた階段から、大隈専務が手を叩きながら下りてくる。
「なかなか派手な見世物だったな。仕事中であることを思えば、いささかやりすぎな罰ゲームだが」
罰ゲーム?
克哉は首をひねったが、二室の室長も虚を疲れた顔をしている。
どうやら大隈はこの場を納めてくれるつもりらしかった。
「皆さん、お騒がせしてすみませんでしたな。
若い者の悪ふざけということで、ここは大目に見てください」
フロアにいた忙しい面々は罰ゲームという言葉に納得して苦笑いしながら、それぞれの仕事に戻っていく。
二室の室長と克哉がなにかの勝負に負けて、ここで芝居をさせられたとでも思ったのだろう。
「佐伯君たちは、私の執務室まで来なさい」
大隈はなぜだか上機嫌だった。

二室の室長と共に専務の部屋に連れてこられた克哉は、ことのいきさつを知った。
「なるほど。大学のOBの紹介で見合いをした君は、断る口実として佐伯君の名前を出した。
ところが相手は逆上して、会社に乗り込んできた、とそういうわけだな」
二室の室長は頭をかいた。
「すみません…付き合っている女性がいる、というより男性がいる、といったほうが受け入れてもらいやすいような気がしたもので」
いや、そんなはずないだろう、と克哉は心のなかで突っ込んだ。
企画開発一室の室長は部長職だが、二室以降は課長職となる。
二室の室長は御堂より少し年長で、温厚な人柄だ。という程度にしか、克哉は彼のことを知らない。
「しかしなんだって佐伯君だったのかね。君のところにも若手社員はいるだろう」
大隈の至極尤もな質問に対し、二室の室長は微笑んだ。
「こういうことは嘘だとしても、想像して満更でもない相手がいいかと思いまして」
艶っぽい流し目を送られて、克哉は慌てて横を向いた。
大隈はしきりと頷いている。
「なるほど。佐伯君に目をつけるとは、なかなか趣味がいい」
「申し訳ありませんでした。こんな大騒ぎになるとは思わなくて。専務の機転で助かりました」
「いやいや。面白い余興だった。
佐伯君には災難だったろうが。 …御堂君が出張中だったことは幸運だったかな?」
今度は大隈に意味深に見つめられ、克哉はにっこり笑った。
ここは気合だ。
御堂の後ろ盾でもあるこの上司は、どうも御堂と克哉の関係に気づいている節があり、時折かまをかけてくる。
御堂はよく大隈専務のことを"タヌキ"と呼ぶが、タヌキは二室の室長にもしたり顔で語りかけた。
「君も幸運だったよ。御堂君がいたら今頃大変だよ」
「…ああ。やっぱりそうなんですね」
ちょっと寂しそうに二室の室長は克哉の左手を見た。
「残念かね。まあ仕方がない。諦めなさい」
克哉はどんどんこの場にいるのが苦痛になってきた。
「あのう」
話に割って入ろうとした克哉に気づくと、大隈は今日一番の素晴らしい笑顔を見せた。
「安心したまえ、佐伯君。このことは御堂君には黙っておこう」

その夜御堂の帰宅は遅かった。
出張先の福岡から直帰する予定だったのが、急遽の確認事項が発生し、本社に立ち寄ったせいだ。
「おかえりなさい、御堂さん。出張お疲れ様でした」
御堂に抱きつきキスをする克哉のエプロンからは、ほんわり醤油の匂いがする。
普段なら抱きしめ返してくれる御堂は、からだを少し離すと克哉の顎に手をかけた。
「どっちだ」
「え?」
「馬鹿女に殴られたのはどっちの頬かと聞いている」
克哉は気まずそうな顔をした。
「もう知ってるんですか…」
「私が社に戻ったのは九時を過ぎていたが、どういうわけか大隈専務が"まだ"仕事をしていて "たまたま"私と顔を合わせて"ふと"今日の出来事を思い出して話してくれた」
「専務…」
頭を抱えた克哉を、御堂は無理矢理上を向かせた。
「さあ、それでどちらの頬だ」
観念した克哉は、顔の左側を御堂のほうに向けた。
御堂はその左頬に自分の右手をあて、克哉の頭ごと抱え込んだ。
「み、御堂さんっ?」
思いがけなかったので、克哉は御堂の腕のなかでじたばたした。
「私でさえ殴ったことがないのに、勘違いの馬鹿女に殴らせるとは何事だ」
御堂は口で叱りながら、手で克哉の髪を撫でる。
「殴ったっていうか…ひっぱたかれただけなんですけど。あんまり痛くはなかったし」
御堂の腕のなかで克哉は考えた。
  …御堂さん、殴りたいのかな?
「あの…じゃあ、殴ります?」
「は?」
「左は殴られちゃったので、右なら」
はい、と右頬を向けると、御堂は顔をしかめて早口で呟いた。
「そんなふうにされると、殴ってみたい気がしてくるな…」
「え?」
「なんでもない」
両頬にキスを落とされた。
「痛いほうがよければそうしてやるが」
「こっちのほうがいいです…」
克哉は嬉しくなって笑った。
テーブルに用意していた軽い食事を取る御堂に、克哉は自分の口から顛末を話した。
「しかし君も君だ。知らない相手から呼び出されて、どうして受付に行ったんだ」
「取引先に同じ名前の方がいたので、ついその人だと思い込んでしまって」
「もしその馬鹿女の頭のおかしさが度を越えていて、刃物でも持ち出したらどうするつもりだったんだ」
「まさかそこまでは」
「わかるものか。見合いを断られたからといって、相手の会社まで怒鳴り込んでくるあたり、充分どうかしている」
「それはまあ、そうですけど」
ふふっ、と克哉は笑った。
「なんだ」
「ひっぱたかれて泥棒猫って言われたとき、なんとなく状況の理解は出来たんですけど。
オレ、てっきり御堂さんの関係かと思って」
御堂は眉間の皺を深くした。
「この私がそんな事態を招くと思っているのか」
テーブルに両の肘から下をつけて腕を組んだ格好で、克哉は微笑んだ。
「だからよかった、って」
御堂は結婚する意志はないと親族に伝えてあるので、そちらからはないのだが、 プライベートな事情を知らない仕事関係から、縁談が持ち込まれることはたまにあり、 その場合、どこそこの大手企業オーナーの一人娘、とかいずれ誰某の後継者とかそういった話が多い。
「誰かの跡を継いで高い地位に就いても面白くないから、そんな結婚に価値はない」
と御堂は言うが、鵜呑みにしてしまっていいのだろうか、と思う気持ちが克哉にはある。
「御堂さん。怒りました?」
「怒ってない」
「…怒ってる」
向かいの席から隣に移動してきた克哉は、御堂の両肩に手を置いた。
「やっぱり殴ります…?」
本当に殴られたらどうしようとちょっと思うが、御堂がそうしたいのなら好きなようにすればいいとも思う。
御堂は克哉の右頬に左手を伸ばした。
熱のこもった目とその手の感触に、背筋がぞくりとする。
頬から滑り降りた手が、エプロンが取れないようにそっと、その下のTシャツのなかに差し入れられた。
「これ、白いほうですよ…」
白いエプロンはキッチン用、ピンクのエプロンはベッドルーム用だ。
「ところかまわず誘ってくる、淫乱な君が悪い」
「誘ってない…」
「誘ってるだろ?」
反論は唇で塞がれた。

翌日、御堂が呼び出す前に二室の室長は執務室へやって来て、昨日の出来事について謝罪した。
「私の考えが浅く、まさかあんなことになるとは思いませんでした。
佐伯君には本当に迷惑をかけて申し訳なかった。
御堂部長にもお詫びします」
御堂は当然という態度で聞いているが、御堂の後ろに立たされていた克哉は、盛大に冷汗をかいた。
いくら克哉の上司とはいえ、ここまで丁寧に御堂に謝る道理はないはずだ。
そんな克哉に、二室の室長は微笑みかけた。
「嘘から出たまこと、というのがなくて残念」
昨日もそうだったが、穏やかそうなこの人がこんな婀娜っぽい目をするのが、克哉には意外だ。
御堂が不機嫌を顕に、わざとらしい咳払いをする。
「ああ、失礼しました。諦めはいいほうなので、しつこくはしません。
ですが後任を探すようなことがあれば、私を思い出してください」
「そういう輩は私が知る限りでも数名いる上、その誰にも出番が来ることは永遠にない。
そもそも君はそういう趣味ではなかったと思うが」
「ええ。佐伯君が特別です」
「佐伯君が指輪をしていることにも気づかなかったのかね」
「気づいてましたが、それがなにか?」
少しずつ後ろにさがっていた克哉の背中が、ついに壁と接触した。
「大事なのは付き合っている相手がいるということではなく、付き合っている相手が誰か、ということだと私は考えますが?」
克哉が誰かと付き合っていようが、その相手に勝てると思えば奪いに出る、ということだ。
MGNには自信家が多いが、二室の室長もそうらしい。
御堂が本気で臨戦態勢に入る前に、克哉は一歩前に出た。
ここまでならぎりぎりの範囲だが、これ以上は御堂の立場を悪くする危険がある。
知らせる必要のない人に、自分たちの関係を教えることはない、と克哉は思っていた。
たとえ向こうが気づいていても。
「あの。この指輪は大切な人がオレのことを思って贈ってくれたもので、 オレが自分の気持ちを強くするために、自分の意志でつけているものなんです。
だから人がこれを見てどう思っても、それはオレには関係ありません」
たどたどしいゆえに説得力のある克哉の言葉に、二室の室長のみならず御堂も息を飲んだ。
「そうか」
と、二室の室長は呟いた。
表情は元の穏やかなものに戻っている。
「幸せですねえ、佐伯君の恋人は。ねえ、御堂部長。そう思いませんか」
御堂は答えなかった。
「仕方ない。きれいさっぱり諦めます。佐伯君、お幸せに」
「ああ、はい、どうも…」
最早そもそもなんの話をしていたのかわからなくなったまま、克哉は頭を軽く下げた。



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